カテゴリ: 大島信三のひとことメモ

藤田伸二騎手の著書『騎手の一分――競馬界の真実』(講談社現代新書)に、「馬はほんとうにわからない」という一節がある。なるほど、やっぱりそうなのか、と、妙にナットクした。

 

競馬はほとんどなにもわからないが、中山競馬場へは何回も行った。人並みにパドックで出走馬を観察したこともあったが、どこをどう見ればよいのか、わかっていたわけではない。ただ、サラブレッドの美しさには、いつも感心し、見惚れていた。藤田騎手は、こう述べている。

 

<本番で走る「強い馬」を見極めるのに、「パドックの際、どこを見たらいいのか」とファンから訊かれることがある>

 

<たしかに調教師は仔馬のころから長年見てきているから、その日調子のいい馬、悪い馬というのは判断できるかもしれない>

 

<でも、すくなくとも俺たち騎手は、「乗ってみないとわからない」っていうのが本音だと思う>

 

騎手にしてわからないのだから、シロウトにわかるはずもない。結局、このわからないところが勝負の醍醐味につながっているのだろう。

 

〔フォトタイム〕

 

日本工業倶楽部その5

国賓を迎えることもあるということで、豪華なつくりとなりました。

 

 

井川意高(いかわ・もとかわ)著『溶ける――大王製紙前会長井川意高の懺悔録』(双葉社)を読んだ。カジノに1068000万円もつぎ込んだ人である。いうまでもなく、大半は会社のカネだ。

 

いかにもオーナー企業の3代目らしいエピソードがふんだんに織り込まれているが、気になるのは、なぜ、カジノにのめり込んでしまったのか、という点。

 

やっぱり、初回の幸運が災いしていた。

 

井川氏の初カジノはオーストリアで、家族旅行で子どもたちも一緒だった。井川氏は、こう述懐している。

 

<昼の間、あさの89時から子どもと遊園地で遊び、家族で夕食を終えたあとに男たちはカジノへ繰り出す。徹夜で勝負したあと、移動のクルマのなかでウトウト眠っていた>

 

23日の初カジノでは、種銭の100万円は失ってもいいと思っていた。その種銭はどうなったのか。なんとわたしは見事に大勝ちし、オーストラリアから日本へ帰国するときには100万円が2000万円まで膨らんでいたのだ>

 

<当時のわたしにとって、数日間で2000万円もの大金を手にしたことは、驚きと興奮以外の何ものでもなかった。この大きすぎたビギナーズ・ラックが、わたしをカジノのおそるべき底なし沼へ引きずりこんでいくことになる>

 

賭けごとにおいては、初回の成功体験は災いのもと、と心得ておいたほうがよいようだ。

 

〔フォトタイム〕

 

日本工業倶楽部その4

地上5階の建物は、大正91920)年に完成しました。かつては経団連がここに陣取っていました。

 

 

1983(昭和58)年1218日、第37回総選挙があった。ときは、中曽根内閣。ロッキード事件で有罪判決をうけた田中角栄も立候補していた。

 

その結果は――。

 

まず投票率は6794%で戦後最低だった。田中角栄は22万票もとって当選。

 

しかし、与党自民党は250人の当選で過半数に達しなかった(その後、無所属を追加公認し、過半数を維持)。

 

ちなみに政党別の当選数は、社会党112人、公明党58人、民社党38人、共産党26人、新自由クラブ8人、社民連3人、無所属16人だった。

 

そういえば、新自由クラブという、いかにもフレッシュな感じの政党があったなあ。

 

〔フォトタイム〕

 

日本工業倶楽部その3

ロケーションは抜群で、正面玄関から東京駅が見えます。

 

 

いまでもレコードでクラシックを聴いている人たちがいる。生き方にこだわりをもつ人たちだ。羨ましいと思う。

 

わかい頃、カネを工面してなんとか揃えたレコードは、いま1枚もない。

 

「ニューズウイーク日本版」1210日号にフランス人ジャーナリストのレジス・アルノー氏が、つぎのような一文を寄せていた。

 

<携帯電話は進歩だといわれるが、ほんとうにそうだろうか。わたしは最近、新宿にある中古レコード店ディスクユニオンで、おびただしい数の古いレコードを置いているフロアに足を踏み入れた。年配の日本人が数人、希少なレコードを古いプレーヤーで聴くために順番を待っていた>

 

<かれらの姿に、わたしは自分が恥ずかしくなった。自分の基準が低くなっていたことに気づいたからだ。多くの人と同じく、わたしはいつの間にか携帯で音質の低い音楽を聴くことに慣れてしまっていた>

 

<ディスクユニオンで列をつくる音楽ファンは、いまの日本でもっとも反逆的な行為をしていた。待つことだ。大衆化がすすむ時代に、かれらは過激な反逆者であり、さいごの貴族だ>

 

処分してしまったレコードが、懐かしい。貴族になれたかもしれないのに、もったいないことをしたものだ。

 

〔フォトタイム〕

 

日本工業倶楽部その2

建物の正面屋上に、ハンマーを持った男性と糸巻きを持つ女性の像が置かれています。かつて日本経済の中心は石炭と紡績でした。

 

 

 

中国でベストセラーになっているという、エズラ・ボーゲル米ハーバード大教授の著書『現代中国の父鄧小平(上)』(日本経済新聞出版社)に、こんな一節があった。

 

<中国の歴史上、老いて鋭気のなくなった皇帝はたいてい、さまざまなタイプの役人に会うことを止め、自分に媚びへつらうごく少数の宦官たちだけに接触の範囲を限った>

 

<林彪亡き後の毛沢東も同様で、鄧小平を含むどんな幹部ともほとんど会わなくなり、外部世界のことを知らせてくれるたった三人の女性に基本的に頼るようになった>

 

ボーゲルがいう三人の女性は、毛沢東の愛人で秘書の張玉鳳(ちょう・ぎょくほう)、外交部が送り込んだ通訳の唐聞生(とう・ぶんせい)、それに毛沢東のイトコの孫の王海容(おう・かいよう)のこと。

 

彼女たちは、毛沢東の耳であり、口であった。

 

考えてみれば、中国の最高指導者の情報源が、わずか3人の女性であったというのは、インテリジェンスの世界からみれば、腰が抜けるほどばかばかしいことであった。

 

極言すれば、当時の中国の情報機関は、毛沢東という最高指導者ただ一人に情報をあげるために膨大なヒトとカネを投入していたはず。

 

それが、すべてはまったくの浪費だったわけで、毛沢東の晩年というのは、中国にとって、悪夢としかいいようがない。

 

〔フォトタイム〕

 

日本工業倶楽部その1

東京駅の丸の内駅舎北口からすぐのところに日本工業倶楽部があります。かつては、ここが財界の総本山でした。

 

 

 

↑このページのトップヘ