夕方、郵便受けをのぞいたら、定期購読している「読売クオータリー」夏号が届いていた。購読料は年間4冊で2000円。1冊にすれば500円ということになる。

 

夏号の特集は「震災復興」。そのなかで最初に読んだのは、明治大学の青山佾(やすし)教授が47日、読売新聞調査研究本部の憲法問題研究会でおこなった「後藤新平の震災復興策から学ぶ」という講演要旨。

 

青山さんとは面識はないが、以前、一度だけ話を聞く機会があった。水上バスで隅田川を走りながら青山さんから東京改造計画を拝聴するという企画に参加したのだが、これは勉強になった。

 

青山さんは、生粋の都庁育ちで、計画部長などを経て第一期石原都政で副知事をつとめた人。ただ、郷仙太郎というペンネームで『小説 後藤新平』という本を出しているのは知らなかった。

 

今回の講演は、なぜ、この本を書いたか、という点から始まっている。

 

<後藤新平を知ったのは、杉森久英の『大風呂敷』という小説です。1965年(昭和40年)ごろに毎日新開夕刊に連載されていました。わたしは、67年に都庁に入ったので、その連載小説を読んで、都知事でもあった後藤新平という人は「大ぶろしき」だと思っていたわけです>

 

<ところが、都庁で仕事をしていると、日比谷公会堂は安田善次郎と後藤新平がつくったとか、昭和通りは震災復興で後藤新平がつくったとか、靖国通り、晴海通りもそうだとか、それから、わたしは環七、環八をつくった時代なのですけれども、環一から環八までも、1927年(昭和2年)、震災復興計画で放射道路と環状道路を組み合わせ、立体交差させる計画があったとか。あるいは、今、小学校を統廃合するたびに問題になりますけれど、小学校に併設して小公園を避難場所、延焼遮断帯をかねてつくるといった業績に次々ぶつかるのです>

 

都の職員として実際の仕事でぶつかる後藤新平に関する話は、杉森久英著『大風呂敷』とはあまりにもちがっていたのだ。一流の伝記作家がつくりあげた後藤新平像をただすために小説の形で書いたというのである。

 

青山さんは、後藤新平の仕事ぶりは決しては大ぶろしきではなくて、とても地に着いた仕事だったという。

 

たとえば1923年(大正12年)91日の関東大震災。このとき焼けた面積は約3500ヘクタールだった。しかし、後藤らが区画整理をしたのは3600ヘクタール。つまり、焼失面積を上回る区画整理をおこなったのである。

 

青山さんによれば、これに対して先の大戦後の戦災復興では、東京各地の駅前広場だけはつくったが、空襲で焼けたのが19000ヘクタールだったのに対して、区画整理をおこなったのはわずか1650ヘクタールであったとか。

 

<区画整理は減歩を伴いますので地主は必ず反対する。大震災の当時は銀座の伊東巳代治(枢寧顧問官など歴任)とかがこの辺の大地主でおり、大反対した。実際、復興院の総裁、内務大臣としての後藤新平の復興計画は、ざっと10分の1ぐらいに計画が縮小された。後藤新平の側近は、こんなに縮小されたならもうやめるべきだ、内務大臣を辞任するべきだといったのですが、後藤は、たとえ10分の1でもやるべきだといって辞任せずに頑張ったのです>

 

やっぱり、後藤新平は偉かった。

 

〔フォトタイム〕

 

蔵前橋その7

豪華な隅田川テラスがありました。