職業選びは、人生最大の事業のひとつである。したがって、用意周到な人は、中学生の頃から、いや早熟な子は小学校の頃から希望する職業にむけた勉強にとりかかる。

 

ピアニストとかバレリーナを目指す子、というより実際は親のほうだが、それこそ幼児から取り組むことなどめずらしくもない。ここでは、そういうケースはひとまずおいて、ごく一般的な就職活動の話である。

 

 

以前から気になっていることがある。それは、ぜんぜん、職業選びに用意周到でなかった人が、案外成功している場合が多いという事実だ。

 

 

そういう公式の統計があるわけではないが、著名人の著作などを読んでいると、案外、気楽に職業を選んでいる人がすくなくない。

 

 

薮中三十二著『国家の命運』(新潮新書)を買って、冒頭の「はじめに」を読んだら、この著者もやはり「職業選びに用意周到でなかった」組のひとりであった。

 

 

薮中三十二(やぶなか・みとじ)さんは、ことしの夏、外務省事務次官を退任した。外交官といえば、それこそ「職業選びに用意周到」組で占められていると思われがちだが、そうでもないのだ。

 

 

薮中さんは大阪大学法学部の出身である。旧帝大だが、阪大出身の官僚はあまりきかない。薮中さんも、「当時、阪大から霞が関の役人になるケースはごくまれだった」と書いていた。

 

 

薮中さんは在学時代、ESSに所属し、3年のときESSの部長になった。ESSというのは、英語研究のサークル。その部長になったので、ある大手銀行から「卒業後は、うちへ来ないか」と誘いをうけた。阪大の代々のESS部長は、その銀行に就職していたのである。薮中さんはこう述べている。

 

 

<それもいいか、とぼんやり考えていたところ、ESSの仲間のひとりが、「こんな試験があるらしい。ふたりで1か月間だけ勉強して受けてみないか」といってきた。見ると、外務省の、いまでいうところの専門職試験であった。外務省の採用には専門職と上級職があり、後者をパスしたのがいわゆるキャリア官僚である>

 

 

ふたりは、近郊のお寺に合宿し、猛勉強した。

 

 

ところが、いざ試験をうける段になって、いいだしっぺの友人は「もうやめた」といって、降りてしまった。

 

 

薮中さんは、ものは試しと受験し、みごと合格した。ただし、合格通知には、「この試験は資格試験ではありません。採用試験ですから、今回の合格はことし限りです」と書いてあった。

 

 

<要は、入りたければ大学を中退して今すぐ入れ、ということだ。3年で大学をやめるのはどうしたものか迷ったが、かといって、外務省について聞けるような相手もいない。最終的にダメなら、大阪に戻って地方議員だった親父の後でも継ぐか、これも人生経験のひとつだ――そんな出たとこ勝負の軽い気持ちで、上京することにした>

 

 

このまま外務省にいたら、薮中さんは、中堅幹部や、小さい国の大使にはなったかもしれないが、アジア大洋州局長、外務審議官、外務事務次官の要職につくことはなかったはず。

 

 

<最初に配属されたのは、アジア局南東アジア第二課、フィリピン担当官の補佐のような仕事だった。そして東京の水にもまだ慣れない頃、上司の首席事務官に呼ばれて、「薮中君、この試験を受けてみないか」といわれた。外務公務員Ⅰ種試験である>

 

 

薮中さんは、専門職でも採用後には中堅幹部、将来は大使にもなれるということだったから、別に無理しなくても、と思いながら、「何も準備していないし、試験まであと1か月しかありません。仕事もあるし、無理でしょう」と上司にいった。すると上司は、「いや、受けるべきだ。仕事のほうは定刻に帰ればいいから、やるだけやってみればいいじゃないか」といったのである。

 

 

この上司のひとことが、薮中さんの背中を押した。

 

 

<そこまでいわれて断るわけにもいかないか、とまたも自主性に欠ける展開だったが、受験することにした。それからの1か月は夜8時から深夜まで、経済原論、国際法、外交史などを頭に詰め込んだ。時間がたつのはあっという問で、気がつくと試験会場に座っていた。周りの受験者は、大学時代から「外交官試験研究会」のような専門グループで何年も研鑽してきた人ばかりで、いっとき根をつめたぐらいの勉強ではとてもダメだとあきらめていたのだが、不思議なことに、こんども合格通知が届いたのだ>

 

 

薮中さんの文章を読みながら、人生の不思議さをあらためて思った。

 

 

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〔フォトタイム〕

 

 

東京ミッドタウン前その4

 

また目線を下げてみました。べつの世界がみえてくるようです。