昨夕(29日)、九段会館で「上坂冬子さんに“一喝”される会」がひらかれた。この会の名称は、産経新聞に掲載されていた上坂さんのコラム「老いの一喝」に由来するのだろう。じつは、414日に亡くなった上坂さんは、葬式とか、お別れ会が大嫌いであった。だから、案内状には、こうあった。

 

<上坂さんのご遺志により、お別れの会などは執り行われないとのことでしたが、きちんとお別れを告げたい、あのおおらかな一喝の声を、いま一度聴きたいとの思いは募るばかりです>

 

<つきましては、天上からのお叱りを承知のうえ、ご遺族の了承を得て生前の上坂さんと親しくお付き合いいただいた皆様にお集まりを願い、それぞれの思い出を胸に刻みつつ、あらためて上坂さんに“一喝”される会を催したいと存じます>

 

曽野綾子さんが、「上坂さんがいたら、どういうだろうかと、ときどき思うことがある」とあいさつのなかでおっしゃっていた。上坂さんのようにズバリ直言する人が、だんだん少なくなっていくのは、さみしい。

 

曽野さんと上坂さんの対談を企画したことがある。事前に、上坂さんは、対談のテーマにかんする取材をおこなっていた。上坂さんにとって、曽野さんは、親友であり、かつライバルという意識があったように思う。

 

クールビズで出かけたら、予想に反してノーネクタイは、ごく少数であった。かといって、上坂さんから、「TPOもわきまえずに!」と一喝される心配は、まったく感じなかった。ご本人は、こういう席にはきちんとした服装であらわれる人ではあったが。

 

帰りに、上坂さんの著書を2冊もらった。『死ぬという大仕事』(小学館)と、『上坂冬子の老いの一喝』(産経新聞出版)である。電車のなかで、ひらいてみた。新聞や雑誌に連載中に読んだものが多かったが、入院していた慈恵医大の先生方との対話をつづった『死ぬという大仕事』のなかに大平正芳元首相の話があった。これはまだ読んでいなかった。

 

上坂さんは、宗教が人間の恐怖や悲しみを解決してくれるかどうかわからないという。その例として、大平さんのことを語る。

 

<あの方には大事に大事にしていた優秀な長男がいた。すごく健康で、大学を卒業して秘書になり、26歳のときに世界を回って見聞を広めてくるといって旅にでた。当時、お父さんは外務大臣だったから、「何かあれば大使館に頼め」なんていったそうですけど、そんな必要ないと笑ってでかけたそうですよ。旅先でベーチェット病という病気にかかって、家には帰ってきたものの、最後は目もみえなくなって亡くなったのです>

 

上坂さんは、この話を大平さんから、直接聞いたという。大平夫人は、死んだ長男に関係のあるものは、すべて処分した。しかし、大平さんは、夫人に内緒でこっそり遺品や遺影を保存していた。毎朝、机の引き出しにそっと入れておいた遺影などをじっと眺めてから出かけたという。

 

大平さんは熱心なクリスチャンだったので、上坂さんは、「信仰は役に立ちましたか」と尋ねた。大平さんは、こう語ったという。

 

「上坂さん、はじめていうけどね。信仰は役に立たないわけではないけれど、息子が亡くなった瞬間、わたしにとって神も仏もありませんでした。強いていえば、立ち直るときに、信仰のおかげで多少普通の人より早かったかもしれないが」

 

大平さんのスピーチは何度か聴いたが、直接お会いし、話す機会はなかった。大学の同級生が大平さんの秘書だったことや、池田勇人元首相の側近、ブーちゃんこと、伊藤昌哉氏(政治評論家)の著書のファンだったので、本のなかにしばしば登場する大平さんには、ずっと親近感をいだいていた。

 

この6月は、会合や仲間との雑談のなかで大平さんが話題になることがあった。40日抗争、衆参同日選挙。当時の自民党は内輪もめに明け暮れ、政局は混迷していた。いまと、どこか似ている。大平さんは昭和551980)年6月12日、現職の内閣総理大臣として亡くなった。一転して自民党は結束し、弔い合戦を展開。衆参両院で安定議席を得た。早いもので、あれから28年が経った。

 

そういえば、上坂さんに一喝されるのが怖かったのか、声をかけられなかったのか、今回は政治家の姿がなかった。

 

〔フォトタイム〕

 

首都高速土橋入り口その2

首都高速土橋入り口は、JR新橋駅のすぐ近くにあります。