産経新聞3月28日付の1面コラムの曽野綾子さん(作家)の題、「小さな親切、大きなお世話」が、面白い。曽野さんは、<世の中のことは、家庭内の軋轢(あつれき)から職場の付き合い、教育や国際政治にいたるまで「小さな親切、大きなお世話」の連続だろう。人間も国家も、表面的善人ほど、他人の領域に正義や人間性を理由に口を出す」と述べているが、皆それぞれにひとつや、ふたつ思い当たることがあるにちがいない。
日々の生活のなかでも、「小さな親切、大きなお世話」に類した話は、すくなくない。たとえば、電車のなか。座席にすわっていたとき、ドアがあいて、品のよい白髪の女性がはいってきて、前に立った。「どうぞ、お座り下さい」とはいわず、そっと、立ち上がって、ドアのほうへ移動した。自分では、自然をよそおって、相手に負担をかけずに、席を譲ったつもりであった。しかし、年配の女性は、前の席が空いたにもかかわらず、座らなかった。これさいわいと、中年の女性が、横のほうからすべりこんだ。
ドイツのある博物館で、「日本人ですか」と、年配のドイツ人から声をかけられた。そのとき、この人に対して、「これは、なんですか」という、唯一知っているドイツ語を使ったのが、大失敗であった。ふだんも親切な老人なのだろう、延々とドイツ語で説明をはじめた。こちらは100%、わからないのだが、あまりにも熱心なので、ついつい、あいづちをうってしまった。知ったかぶりをして、ほんとに申し訳のないことをしてしまった。だから、決して「小さな親切、大きなお世話」というつもりはない。
曽野さんの「小さな親切、大きなお世話」というタイトルにつられて、つい駄文をつらねてしましたが、皆さんの体験談もお聞かせ下さい。
〔フォトタイム〕
丸の内とチューリップその7
3月20日と23日には、チューリップの鉢植え4300個が、先着順で無料配布されました。来年もまた、このイベントは、ひらかれるはずです。
コメント
コメント一覧 (20)
私も、途中からまったく分からなかったのですが、相槌を打ちました。
でも、一生懸命に説明してくれるのが嬉しかった思い出です。
電車で座席に座っていた人のズボンのチャックが開いている事を教えて上げ
た後、知らぬが仏、小さな親切、大きなお世話だったかも知れないと、その
様に思った事があります。
今「美しい日本」はこのような風景だけですね。
政治家はもとから風体は汚かったが、最近では政治家だけでなく日本そのものが、全て汚いですね。 救われるのは、政治家には汚くなるような頭がもとからなかったことぐらいですかね。(笑)
チューリップ、綺麗ですね。
暖かくなってきて、気分がいいです。
子供たちにも、「どうぞ」の一言が自然に言えるように、家庭教育をしっかりやりたいものです。
おはようございます。
アメリカに引っ越してすぐの頃近所のアメリカ人の奥さんに、「今度ホームパーティーをするからその時に私のお友達を紹介してあげるね♪」と言われ、感謝の気持ちでパーティーに行くと… 彼女が主催のPampered Chef(キッチン関連の物販販売)で、彼女は約束とおりお友だちをいっぱい紹介してくれました。「小さな他人への親切、大きな自分への親切」という、アメリカ社会との出会いでした。勿論、親切心いっぱいの人もいますが…
最近のチューリップは、いろんな色や種類がありますから、写真は、赤、白、黄色♪でなく、赤、黄色、ピンク♪ですね。
「小さな親切、大きなお世話」、経験あります。
お年寄りに席譲っつたつもりが、肝心のお年寄り野となりの若者が座ってたとか。親切って難しいと思ってます。
だからではないですが、電車の優先席は、なるべく避けるようにしてます。
知らない人に親切にするのって、意外に勇気いると思います。
子供にはその勇気を身につけてほしいと思ってますが、
同時に、ありがとう」が素直に言える様にもなってほしいと思います。
そうですね。一生懸命なのですから、感謝すべきですね。
電車で、立っている女性の洋服に糸くずがついていました。とても気になったのですが、声をかける勇気はありませんでした。かといって、無断で糸くずをとったら、叱られますよね。
オフィス街のチューリップ、いいものですね。来年もチューリップのイベントがあるはずです。もし、機会がありましたら、丸の内へどうぞ。
これから、いちばんいい季節になります。やはり四季のある国は、すばらしいと思います。
日本でも、そういうケースがないわけではないけれど、こうしたら、どう思われるかと、つねに気にしているのが、日本人ですね。
ほんと、<知らない人に親切にするのって、意外に勇気いる>と思います。
夜、電車が終着駅についても、眠っている若い女性がいます。まあ、車掌さんが起こしてあげるのは、わかっていますが、こういうときは、ちょっと考えますね。
そんなに年寄りでないよと、言われましたが、東京では当たり前でしたが、
よく見ると、若くても早いもの順に座っていたようでしたね。
最近の東京は、そう言った感じがしてきます。
先ず、アメリカによるイラク侵攻は、「侵略の定義」を採択した国連総会3314号決議(1974年12月14日)の付属書の第2条“例え、諸行為の関与またはそれらの結果が十分に重要性のない事実を含み、他の関連する状況についての見地において正当でない1つの攻撃的な行為が遂行され、国連憲章に順応して1つの判定を国際連合の安全保障理事会が結論づけたと雖も、一つの国家的組織が国連憲章に違反する軍事力を最初に使用する事は、一つの侵略の起源的な実相についての証拠を構成する”という規定に則って合理的に解釈すれば、「小さな親切、大きなお世話」を大きく超越して「平和に対する罪」を構成する「侵略戦争」である、ブッシュらは「戦争犯罪人」として訴追されて然るべきだと、“現実を見ない机上の理想主義”の視点から、私は強く主張します。
因みに、大東亜・太平洋戦争に関係した大日本帝国の主導者たちは、「平和に対する罪」で訴追され「極東国際軍事裁判所」で有罪判決を受けて処刑されたのは、紛れもない事実であり、その反省に立つまでもなく、正義と秩序を基調とする国際の平和を希求する日本国民は、「小さな武力、大きな平和」を主導すべき「技術的(職人)国家」でなければならないと、“現実を見ない机上の理想主義”の視点から、私は強く主張します。
然しながら、日本国の小泉純一郎内閣総理大臣は、いち早く「アメリカの武力行使を理解し、支持する」との声明を発表し、産経新聞の古森義久ワシントン駐在特別編集委員兼論説委員なども、アメリカの苦戦を論ずる識者を「恥辱の殿堂」に追い遣って開戦の後方支援をしていたように伝え聞いており、実に遺憾に存じます。
(続く)
2003年(平成15年)頃になって、開戦時に取った小泉純一郎首相らの言質を理由に、米国政府筋から“Boots on the ground!”と要求さた“場当り済崩しによる現実主義”の日本政府と与太郎さんたちは、“反対/拒否すると国益を損ねる”と唱え、与太郎の公明党からは神崎武法代表が態々現地調査に赴いて“サマワでは、治安維持を担当しているオランダ軍の指令官が床屋で鉄兜を脱いでいるから、サマワは安全な「非戦闘地域」だ”なという、当然の現象を根拠にした“安全宣言”をし、その支持母体である「池田教 創価学会」の信徒を始め日本国民を誑かして、陸上自衛隊を“交戦区域”に派遣・上陸させて“人道復興支援”なる偽善行動の啓蒙・宣伝活動を展開したのは紛れもない事実だと、私が認識しています。
然し、帽子を被ったまま調髪している姿を、私は未だ見たことはないし、サッダーム・フセイン政権統治下のイラクにも、“イスラム原理主義と思しき人から首筋に刃物を当てられれても、何の不安・危険も感じないという平和的で安全な床屋が全国的にたくさん存在している”というような風説を、イラン‐イラク戦争当時にバーレンで聞いた幽かな記憶と、イスラム圏の国々(イラクとイランを訪問する機会はなかった)で、その様な体験をした明確な記憶が、私にはあります。
アメリカによるイラク侵攻と“偽善的な人道復興支援”の啓蒙・宣伝活動の“前方支援”を「政権ヨイ書、野党コラ書」を信条とすると思しき某一流新聞などは積極的に、そを展開していたと、“現実を見ない机上の理想主義”の視点から、私は推量しておりますが、然し、産経(紙)新聞 平成20年(2008)日刊23472号 2/28[金]14版1面に掲載された「小さな親切、大きなお世話 『職人国家』が生き残る」という記事の中で、“アメリカがイラクのフセイン政権を正義と自由の名のもとに倒したのも、そのために数十万人といわれるイラク人と数千人のアメリカ人が命を落としたのも、「小さな親切、大きなお世話」の結果だったといえなくもない”という作家 曽野綾子さまのご意見を拝見し、産経新聞は、「イラク侵攻」に対する認識の舵をようやく反対側に切り始めたのかと、甚く感動を致しました。
米国のダブルスタンダードについては、世界統治が先にありますから、特段おどろくべきことではありません。
しかし、おおきなお世話については、共産主義中国と同等かそれ以上の文化侵略をしています。
戦争行為にいたっては、自衛の範囲をはるかに越えています。もともと、米国には多極支配の思想があります。世界で戦争行為をしても、自国民の消耗がある一定数を越えますと、ゆりもどしがきます。
米国の世界標準の正当性は他国の文化と折り合いがつかないこともあります。資本主義には高い倫理性が必要であって、これが、くずれますと、弱肉強食の階層社会を生み出します。民主主義と資本主義とは別の思想です。このへんは、きちんとね歴史に学ぶ必要があります。
自由主義もいき過ぎますと社会の公正さをそこないます。報道の自由にも、公器としての高い倫理性が必要と考えられています。
なんでもありの社会がどういうものかは想像できませんが、あまり、いごこちの良い社会ではないと思います。
それぞれの文化圏には、それなりの常識としてのおきてはあります。法律が必要なのは、その思想の反映だと思います。
すべて法律でしばらないという社会も大きなお世話というものだと思います。自由主義と社会の公正さという二つの思想で物事を考えるなどをすることが肝要かと思います。
そうですね。まだ空いているのに、優先席にすわっている若者がいます。
ご意見、うけたまわりました。
「池田教 創価学会」とは言い得て妙ですな。
いつもながらのことですが、
お腹を抱へながら拝読させてゐただきました。
理想主義者の観方といふのは、興味深いものがありますな。
事実、多くの犠牲者が出たことは事実ですが...。
返信ご無用。