桜の季節に、とんでもない事件があいついでいる。ついに岡山市では、「殺すのは、だれでもいい」という、危険きわまりない少年(18)が現れた。背筋がぞっとする。土浦市で通行人ら8人が死傷した事件もまた、通り魔(24)の仕業だった。
白昼、駅の構内で刃物をもった男とすれちがうなど、だれも想像もしていないし、ホームでうしろから突き飛ばされるなんて、予想すらできない。安全は、空気のようでなければ、安心して暮らせない。どうして、こんな怖い世の中になってしまったのか。突き落とし殺人の少年の父親は、むすこに不審な予兆は、一切なかったと、語っていた。無差別殺人の予備軍を見つけだすのは、途方もなくむつかしい。
この少年も、「まじめでやさしい」「成績も優秀」という評判だった。事件のたびに、同じような犯人評がきかれる。こうも「まじめでやさしい」人間の犯行が多いと、善人研究というものを、徹底的におこなう必要がありそうだ。考えてみれば、いかにも悪人ふうの人物に対しては、だれしもそれなりに警戒し、身構えているので、むしろ安全かもしれない。
それにしても、この国は、「まじめでやさしい」人間を信用できない社会になってしまったのか。
そもそも、「まじめでやさしい」という評価は、世間にさらした外面(そとづら)から得られたものにすぎない。内面(うちづら)は、肉親でさえ、わからない。だから、事件のたびに、「信じられない」ということばがきかれるのだ。いずれにしても、他者が、その心の闇を理解し、解きほぐしてやるのは、まったく不可能ではないが、至難のわざといえよう。
そのうちに、「あの子は、ふまじめで、やさしくない」と、評判の子のほうが、世間では、好かれる存在になるかもしれない。そういう歪(いびつ)な社会の到来だけは、ごめんこうむりたいが。
〔フォトタイム〕
丸の内とチューリップその4
丸の内界隈は、すっかりかわりました。オフィス街にして、ブランド街。そしてグルメ街でもあります。
コメント
コメント一覧 (22)
インタビューされて不用意なことをいうと後からうるさくなりそうなので、とりあえず当たり障りのないところで答えておく、という風潮が広がっているように思えます。
「まじめでやさしい」人間を信用できない社会になってしまったのか、と仰っていますが、特別悪い人間でなければ、誰でも当たり障りがないように、そういうのでしょう。
やはり、問題を起こす人間は何か兆候があると思います。
注意していれば親は気が付かないはずはないのですが、それに気がつかない事(環境)に、問題があるような気がします。
いずれにしてもこのような人間はいるのですから、私はプラットホームの前列には立たないようにしていました。
家庭も、社会も、めんどうくさくならないように、いい子にしてしまう風潮は、たしかにありますね。
実際は、かすかであれ、気づいていたのでしょう。ただ、そこまで思いつめていた息子の心の闇には、思い至らなかった、ということではないでしょうか。むつかしいところですね。
刑務所はいつから、安楽な逃げ場になったのでしょう。
行きたくない、嫌だと思える場所でないと、刑務所の意味が無いように思えます。
どうして何もない人を傷つけなければいけないのか?
若しそれがこの人生への復讐だと思えてもやってはいけないことと理性が働かないのか?
僕も一時は狂ったようにのたうちまわり「文句があるのなら誰でもかかって来い!」と刃物をポケットに忍び込ませていた。
だけど薬で朦朧なりながらでも意味のない行為は出来なかった。
それは僕の心には何時も目には見えないが神の存在があったからかもしれないが・・、
頭脳は抜群、俺は神の子、そう思っていたから、現実の空しい有様にその誇れる頭脳が薬でボロボロになりゆくそれがこんな俺をこの世に存在させた神への復讐・・と、
こんな心理を普通の者には理解できないだろ・・が、
それでも他人を傷つけることはなく自らを消すことにしたあの世の光景は今でも涙の中に浮かんでくる・・、
頭が良ければそれなりの理性をもって行動してほしい・・それが人間の証なのだのに・・。
要は、平然と「謗法・非違;ノンコンプライアンス(noncompliance)」を促進する「不真面目な木鐸」が跳梁跋扈しているのではないでしょうか…。
老いた泥棒が、暮らしなれた刑務所入りを望んでふたたび犯罪に走る例は、日本にも外国にもあります。しかし、少年がそういう気持ちになるというのは、哀しい話ですね。
心の問題は、他者にはなかなかわからないものです。わかるのは、超越した存在だけなのかもしれません。
たしかに、<「不真面目な木鐸」が跳梁跋扈している>というご指摘は当たらずともとも遠からず、かもしれません。
真面目な人=本当は、悪人だったり。
優しい人=裏で、陰湿な性格らしい。
こんな人、結構多いようですよ。
おつかれさまです
若い人の犯罪・ふだんは温厚な中高年が突然「きレル」・・
今の日本は いたるところで精神的に崩壊しています
この先の日本はどうなるのでしょうか
総論的な言い方をしますと 「心の問題」なんでしょうね
昭和末期あたりの教育から おかしくなってきた~と思ってますが・・
「善と悪・常識と非常識」については 比較して初めて認識できます
それを可能とするのが人間の理知ですが 理知は判断する十分な基準を
持っていない となれば理知には限りがあるし理知自体が
善悪を包含している~とつらつら考えてくると・・
人の心のメカニズムを分析し かりに解明したとしても
厄介なのは 正しい認識=正しい言動にはならないということですよね
それでもすべての人々が~とはいいませんが「これぞ規範となる統一基準」
のようなものを再構築する工夫が必要だと思いますが。
いわれてみますと、そういうタイプ、いますね。まあ、二面性というのは、多かれ少なかれ、人間の普遍性のひとつなのかもしれません。
おっしゃるとおりですね。暴走老人というのも、社会問題となっています。世の中全体が、せわしくなくなって、余裕がなくなってきたのも要因のひとつでしょう。
昔から殺人事件などが発生すると
大人しい、真面目、優しいと云った様な言葉が、事件を報じた記事の内容に
はあった様に思います。
普段は大人しいという人達は
ある一定の臨界点に達してしまうと、制御していたものが吹き飛んでしまい
常識を逸してしまう事があります。
勿論、特別な事件ではありますが
しかしどうなんでしょうか、稀とはいえ、いつの時代にも発生する類いの事
件なのでしょうか。
また犯罪そのものは戦後からは減少していると聞きますが
それでも今回の様な事件は、やはり増えているのでしょうか。
どうしてもセンセーショナルな事件となりますので
世の中が腐り始めているかの様な印象にもなってしまいますが、やはりその
通りなのでしょうか。
この少年、青年たちがそうであったかどうかは私にはわかりませんが、ただ一般的に抑圧された時間をあまりにも長く過ごしてきたのではないかと愚考します。 これは、勉強しろ!とかよい子でいろ!という精神的な抑圧だけでなく、むしろ少年には肉体的な抑圧の方が大きいのではないでしょうか? 人間のもつ基礎体力を、子どもの頃から毎日消費し、またその体力を養ってきたのでしょうか?
男女各々が動物的本能をもっているのに、男の子が「強くて逞しい子」であってはいけないようなそんな抑圧が、現代社会に蔓延っているように思えます。 トラックバックさせていただきました。
異常な事件というのは、昔からあったと思います。昔とちがって、多メディア時代になって、大々的に報じられるため、現代のほうが目立つということもあると思います。しかし、いずれにしても昔より深刻なように思えます。
たしかに、おっしゃるような、抑圧がはびこっていると思います。「母」の哲学、拝見しました。
外人による日本人評価とにていますね。
「まじめでやさしい」
いつもゆずってあげる。だから相手は頭に乗ってくる。
で、我慢に我慢を重ねて、一気に爆発。
「相手の状態を考える」日本人らしい日本人が、彼の周りにはいなかったのでしょか?
なるほど。外国人の評価と似ているかもしれませんね。
パメラ・レヴィンという交流分析学者は“You have a right to be here.”という“ご託宣”を生まれてから6ヶ月の間に受け続ける事が大切だと言っているそうです。
生まれてから6ヶ月間に限るか否かは措いて、乳幼児期にその“ご宣託”を受取れないと、成長してからも、絶えず、自分の存在が、他人にとって迷惑になっているのではないかと恐れ、何処にいても腰が落ち着かず、誰と会っても別離ばかり考え、他人から迷惑そうな扱いをされると、酷く傷つき、酷く傷つくからこそ、他人または集団社会に“愛らしき言動”を注ぎ、それが評価されていないと感ずれば更に傷ついて、相手に媚びて従順な奴隷になるか、または、ぶち切れて相手を倒すかという異常(自然法に則れば正常?)な行動にでるのではないでしょうか?
因みに、“You have a right to be here.”という伝言を相手に伝える方法はよくわかりませんが、生まれたときから、何時も何処でも何をするにも「一人前の人間」として扱うこと、すなわち、苦情も“楽情(?)も相互に率直に交信することもその一つの要素ではないかと、私は考えます。
<You have a right to be here.> 自分の存在の正当性を認めてくれることばですね。