いち早く福田康夫首相誕生の流れをつくったのは、古賀誠氏であった。勝利へむけた戦いで先陣をきったのだから、論功行賞(ろんこうこうしょう)の一番手であるのは、たしかだ。福田陣営からも、「幹事長は古賀さんしかいない」という声が出ていたし、ご本人も、まずまちがいなく幹事長だと確信していたはず。

 

ところが、福田新総裁からいわれたのは、意外や総務会長。このとき、古賀氏が、むっとしたのは、容易に想像がつく。サラリーマン社会なら、内心では、むっとしても、顔にはださずに、「はい、承知しました」と、引き下がる。いや、サラリーマンにかぎらず、国会議員でも、人事権者の決定には従うのが、ふつうであろう。しかし、古賀氏は、自分にかんする人事案を、自分でこわしただけでなく、みずから自分の役職を進言するという大胆な行動にでた。サラリーマン社会でも、そういう例は皆無ではないかもしれないが、まだ実例を耳にしたことはない。

 

自民党の3役の序列は、幹事長、総務会長、政調会長の順。与党の3役は、権力の中枢に位置する。総務会長は、軽々しいポストではない。しかし、古賀氏にすれば、「幹事長をやったオレが、なんで伊吹文明くんの下で、総務会長なんだ」という気持ちだ。実際、いまの総務会長はお飾りのような存在で、あまり実権がないのも事実。とはいっても、いくら古賀氏があつかましくても、「わたしを幹事長に」とは、いえない。

 

そこは、めざとい古賀氏だ。総務会長より低いポストで、しかも総務会長より権限のあるポストに狙いをさだめた。そのポストというのは、選挙責任者。やはり軍師といわれるだけあって、目のつけどころがちがう。たしかに世の中には、肩書きと実権が一致しない例はいくらでもあるが、古賀氏は、名より実をとって、選対委員長になった。

 

驚いたことに、古賀氏のために選対委員長は、総裁直属で党4役に格上げされた。公認権とカネをがっちりとにぎっただけでなく、総裁直属だから、幹事長に相談しなくとも、まかり通る権利まで得たのだ。そこまで権限をレベルアップしての4役入り。あきれるほどに、あざやかで、機敏な判断ではないか。
 

人事の組み替えは、影響が大きいし、だれかが、そのあおりをうける。古賀氏から、「やだよ」と意思表示されたとき、福田総裁が、むっとしたかどうかは、わからない。当初の案で、説得したかどうかも、わからない。わかっているのは、むっとしたのは、選挙責任者になるはずの二階俊博氏。総務会長に再任されて嬉しいだろうと世間では思っているのに、テレビに映る二階氏は、ずっと仏頂面(ぶっちょうづら)であった。いずれにしても、古賀氏の異議申し立ては、ゴネ得という印象を世間に与えた。そのうち巷では、「ゴネる」を「古賀(コガ)る」というふうに表現するにちがいない。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

9月26日、大安。秋のバラ見頃(秋留台・代々木)。

9月27日、ススキ・オギの穂なびく(小山田緑地)、ヒガンバナ見頃(旧芝離宮)。

9月28日、コナラ紅葉・どんぐり落果(光が丘・長沼・平山城址)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その3

増上寺の大殿(だいでん)で、昭和49(1974)年の再建です。増上寺の創建は、明徳4(1393)年ですから、614年の歴史があります。当初は、いまの国会議事堂のちかくにありましたが、徳川家康の江戸入り後に、現在の芝に移りました。