元首相の宮沢喜一さんが6月28日、老衰で亡くなった。享年87歳。宮沢さんの政治感覚にはクビを傾げることがあったし、折々の政治評論家的な言い方には違和感をもったこともしばしばあった。しかしながら、ひとつの時代を代表した政治家であったのはまちがいない。宮沢さんの輝かしい経歴はおいて、ここでは暴漢に襲われたときのことを、御厨貴・中村隆英編『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店)を参考にしながら振り返ってみたいと思う。

 

昭和59(1984)年3月8日のあさ、宮沢さんはホテルニューオータニにむかった。前日、立正佼成会の庭野日敬会長から会いたい、という連絡があったからだが、これはニセの電話であった。そうとは知らずに指定された部屋に入った宮沢さんは、そこにいた男からナイフを突きつけられて、「金を出せ」と脅された。宮沢さんは、組んずほぐれつ、男と格闘し、ついにナイフは取り上げたが、灰皿をぶっつけられたりして、なかなか部屋から脱出できなかった。以下、同書を引用しよう。

 

宮澤 なんとかしてドアのところに行って、と思うんですが、ドアが内側へ開いても、かなり重い勢いでバタンと元へ戻るものですから、いっぺんぐらいノブが掴めても、また後ろから引っ張られちゃうので駄目なんです。そういうことで、かれこれ30分、わたしは40~50分やったのか思っていましたが。

御厨 それはすごいですね。

中村 体力が…。

宮澤 それはしかし、殺されると思いますから、誰でもやっぱり一所懸命やります。何度かドアのほうに手が引っかかるのですが、それができない。相手のいっていることもはっきりしないんです。金をよこせというなら、そういう状況では金をよこすことにはならないわけです>

 

部屋のなかですさまじい取っ組み合いがおこなわれているというのに、なぜか従業員はやってこなかった。ようやく逃げ出して救急車に運ばれ、「虎の門病院にしますか、それとも警察病院にしますか」と聞かれて、宮沢さんは虎の門病院を選んだ。救急車のなかで、警察官から宮沢さんは、一体、どういう状況でやられたのかと、聞かれた。「わたしは、ほとんどもう消耗し尽くしていましたから、とてもそんな尋問に答えられる状況にはないんですが、さすがに商売だなと思って、半分腹が立って、半分感心しました」と、宮沢さんは同書で述懐している。

 

犯人の素性やその背景などには、一切ふれていないが、事件が起きたのは、いまから24年前のこと。ということは、そのとき、宮沢さんは64歳ということになる。そのトシで、凶器をもった暴漢と密室で格闘したという事実には、文句なしに敬服している。合掌。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

6月29日、チョウトンボ飛来確認(浜離宮)。

6月30日、ネムノキ満開(葛西臨海)、ムクゲ60種見頃(神代)。

7月1日、ヤマユリ開花(旧岩崎邸)、アメリカディゴ開花(日比谷)。

 

〔フォトタイム〕

 

東京ミッドタウンその5

上段はホテルの玄関、下段は個人の住まいの玄関。いわゆるセレブという方々のエリアであります。