自分が、平沼赳夫氏と同じ立場に立たされたら、どうしたであろうか。これは難問である。おそらく平沼氏とは、雲泥の差であるにちがいない。頭を抱えて考え込んで、のた打ち回り、それでも結論を出せず、結局、ずるずると態度を明かさないまま、いまに至っている。そんな優柔不断な自分がありそうだ。

 

平沼氏と中川秀直幹事長の、どちらの言い分にも一理があるから、悩ましいのである。心情的には平沼氏のほうに傾いていても、さりとて中川氏のスジ論を軽く一蹴できるほど問題の本質はやさしくない(中川氏の手法には、問題があったが)。事の是非はおいて、いずれにしても、平沼氏の信念には感服した。すごいと思う。それでこそ、真の政治家だ。半面、政治というのは、妥協の産物でもあり、ときには信念をまげることも求められる、じつにやっかいな俗界でもある。誓約書をだした11人を批判することは、わたしにはできない。

 

『正論』12月号のグラビアに平沼氏が登場している。そこで平沼氏は終戦の日の出来事を書いている。それによれば、昭和20年(1945年)815日早朝、東京・新宿の平沼騏一郎(元首相)邸に武装した兵士たちが侵入した。6歳の赳夫少年(2歳のとき、騏一郎の養子となった)は、婆やに導かれ、外へ急いだが、抜刀隊に押し止められた。兵士たちは、家人にピストルを突きつけ、騏一郎の居場所を詰問した。騏一郎をみつけられなかった兵士たちは、家に放火した。赳夫少年をおぶって母親は、燃えさかる家のなかに飛び込み、過去帳を持ち出そうとした。

 

平沼氏によれば、「炎のなか、あとわずかで紫の風呂敷に手が届こうというとき、さしもの冷静沈着でオデコで頭でっかちの変な子供、すなわち私も本能的恐怖には抗し得ず、『熱いよう』と叫んだ。母は『落命してはかえってご先祖様に申し訳ない』と引き返した」という。

 

平沼氏の母親は、勝気で親分肌の女性であった。この修羅場のときも、母親は出口に履物がなかったので、火をまたいで納戸へ引き返し、新品の桐下駄をはき、火つけの兵隊をにらんで出てきたという。この終戦の日の原風景は、信念の人、平沼氏の骨格にしっかりときざまれているようだ。

 

〔フォトタイム〕

 

コレド日本橋その3

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