ソ連がキューバへ核ミサイルを配備しようとしたのだから、アメリカは激怒。ケネディ大統領は海上封鎖を決意し、あわや核戦争か、とまでいわれたキューバ危機。44年前の1028日、結局、フルシチョフが折れて、危機は回避された。その間、緊迫したホワイトハウスにあって、ケネディはつとめて平静を装い、スケジュールもなるべく変えないようにした、といわれている。動揺していることを、ソ連に見透かされるのを嫌ったのであろう。

 

大統領秘書をつとめたエベリン・リンカーンの回想録(邦訳『ケネディとともに12年』)を読むと、その間、ケネディは国家安全保障会議のメンバーや議会指導者、アイゼンハワーやトルーマン、フーバーといった元大統領などとの会談で、多忙かつ緊張した日々を過ごすのだが、その一方で、まるで普通の日のようにウガンダのオボテ首相などにも会っている。

 

この時期に洋服デザイナーのサム・ハリスが、大統領の新しい背広とオーバーをもって、ホワイトハウスにやってきた。リンカーン秘書が、「サムが大統領に会いたがっているけれど、いかがしますか」と、尋ねた。ケネディは、「かれに、6時ごろ来なさい、と伝えてください」といった。そんな、のんびりしたやりとりもあったというのである。

 

約束の時間にサムは新しい背広とオーバーをもって、いつ呼ばれてもいいように大統領執務室の隣で待機していた。合図があって、かれはすぐ執務室にはいり、「背広もオーバーも大統領にピッタリ合うことを確認した」と、リンカーン女史は書いている。そして、こうつづけている。

 

「大統領は、わたしにそれをマンションにいるかれの執事のジョージのところへ持っていってくださいと頼んだ。大きな危機に直面しているようなときでも、約束したことはちゃんと果たすというのは、いかにもかれらしい」

 

日本の首相が大地震の発生でテンヤワンヤしているとき、官邸に洋服店の人間をいれたら、いくら前々からの約束であっても、コテンパンにやられるのはまちがいない。ケネディ大統領の律儀さと度胸のよさには感心するが、なにも、あの時期に背広の寸法を合わせることもないような気もするが、いかがだろう。それとも、これも平静を装うカムフラージュのひとつだったのか。

 

<きょう・あす・あさって>

 

1962年(昭和37年)1028、キューバ危機、回避。

1956年(昭和31年)1029、イスラエル軍、エジプト領シナイ半島へ侵入。あれから50年。

 

〔フォトタイム〕

 

霞が関ビルその7

昔、霞が関ビルの36階には「パノラマ36」という展望フロアがあり、東京の名所でした。現在、36階は一般オフィスとなって、立ち入り禁止となっています。