2009年06月

たかがジャンケン、されどジャンケン。グー、チョキ、パーと、勝てる確率は、どれも3分の1のはずなのに、なかなか勝てない人もいる。わたしもそのひとりだから、けさ(20日)の日本経済新聞に、「ジャンケンで勝つ法」という見出しのコラムをみつけたときは、さっそく切り抜いた。

 

奥儀というものは、その道の達人からこっそりと教えてもらうのが、本来の流儀。発行部数が、何百万という全国紙で種明かしされては、有難みもなくなってしまう。といいながら、わたしもネットでこの記事を紹介しようというのだから、五十歩百歩か。

 

記事によれば、これは数学者、桜美林大学の芳沢光雄教授の研究。芳沢先生は、学生725人をあつめてのべ11567回、ジャンケンをさせたところ、つぎのような結果がでたという。

 

グー4054回(350%)、パー3849回(333%)、チョキ3664回(317%)。したがって、「統計的には、グーがでやすく、チョキがでにくい。だからパーをだせだ勝ちやすい」というわけ。

 

なぜバラつきがあるのだろう。記事によれば、①手の構造上、グーやパーよりチョキのほうがだしにくい、②驚いたり、緊張したり、「勝とう」と意気込んだりすると、握りこぶしのグーをだしやすい、とか。いわれてみると、たしかに、そんなふうかもしれない。

 

だから、相手をせかしたり、挑発すれば、いっそうパーで勝つ確率がたかまるそうだ。

 

あいこのときも、知っておきたい手がある。

 

学生725人が2回つづけてジャンケンした1833回のうち、同じ手をだす回数は2465回(228%)にとどまった。つまり、2回つづけて同じ手をだす人はすくない、ということ。

 

あいこのときは、<その手に負ける手をつぎにだせば、負ける確率を下げることができる>というのだが、おわかりだろうか。

 

グーであいこなら、チョキ。チョキであいこなら、パー。パーであいこならグーということ。もっとも、ジャンケンをする相手も、このことを知っていたらどうするか。ウラのウラを読むことだというが、カンの鈍い当方などは、どう読んだらよいのか、その場におよんだら、見当もつかないだろう。

 

〔フォトタイム〕

 

銀座で写すその6

きれいな花が咲いていました。

 

 

619日は、桜桃忌。太宰治(本名・津島修治)のお墓がある三鷹の禅林寺には、大勢の太宰ファンが訪れているにちがいない。

 

この日を太宰の命日と思っている人もいるようだが、津島家の命日はちがう(正確な日を思い出せないが)。

 

昭和231948)年613日夜半、太宰は、前年3月、三鷹駅前の屋台で知り合った山崎富栄と玉川上水へ身を投じた。6月19日というのは、玉川上水で2人の遺体が発見された日である。

 

ことしは没後61年ということになるが、このところ太宰が話題になっているのは、没後ではなく、生誕のほう。奇しくもというべきか、こちらも619日である。

 

ちょうど100年前の明治421909)年619日、太宰は、青森県北津軽郡金木村(現在は五所川原市金木)の大地主の家にうまれた。当時の津島家は、250町歩の田畑を所有し、300人の小作人がいたという。

 

わたしの推測にすぎないが、太宰が昭和23613日に入水したのは、619日の誕生日を意識してのことだったのではあるまいか。

 

61年前の619日、太宰は満39歳を迎えることになっていた。いまとちがって、その頃は数え年が一般的。おそらく太宰の気持ちは、いよいよオレも40歳か、というかなり思い詰めたものがあったように思える。

 

昭和191944)年512日から65日にかけて、太宰は、「津軽のことを書いてみませんか」という編集者の求めに応じて、故郷の津軽地方を取材旅行し、乳母のタケとの再会などを書いた「津軽」を刊行した。

 

この作品が、若いころから好きだった。

 

「津軽」の本編は、家人と作者のつぎのような会話ではじまる(原作は旧かな)。

 

<「ね、なぜ旅に出るの?」

「苦しいからさ」

「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」

「正岡子規36、尾崎紅葉37、斎藤緑雨38、国木田独歩38、長塚節37、芥川龍之介36、嘉村礒多37

「それは、何の事なの?」

「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」

「そうして、苦しい時なの?」

「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ」>

 

このあとに、「私もいい加減にとしをとった」と書いた太宰は、数えでもまだ36歳。しかし、本人はすでに老境という感じだったにちがいない。

 

太宰は、40代以上の自分の人生というものを、ほとんど描いてなかったように思う。たぶん三島由紀夫も、50代以上の自分の姿を想像したくなかったであろう。

 

いずれにしても誕生日を目前して、身を投じた太宰の心境は、現代の年齢感覚では、とても理解できないことだけはたしかだ。

 

〔フォトタイム〕

 

銀座で写すその5

石原昌一作「石鹿灯ろう娘」です。

 

 

けさ(18日)の朝日新聞によれば、<北朝鮮の金正日総書記の3男、正雲氏が、極秘に訪中し、胡錦濤国家主席と北京で会談した際、長男の正男氏が同席していたことがわかった(北京、峯村健司特派員)>という。さらに記事は、<正男氏は胡主席と面識があり、紹介者として側近とともに列席。北朝鮮筋は、「後継者は正雲氏であり、北朝鮮指導部が一致して支持していることを中国側に強調する狙いがあった」と指摘する>とも。

 

2日前の16日付朝刊で峯村特派員が報じた、6月10日前後に、<正雲氏が、金総書記の特使として中国を極秘に訪問していた>という記事にはびっくりしたが、兄の正男氏も一緒だったというのも、これまたおどろきだ。

 

きのう(18日)の産経新聞も伝えているように、<中国外務省の秦剛報道官は、16日の定例記者会見で、「北朝鮮の金正日総書記の後継候補としての情報がある3男の金正雲氏が610日前後に北京を訪れ、胡錦濤国家主席と会談した」との一部日本メディアの報道について、「中国側は、この件について承知していない」と述べ、事実上否定した>。

 

 

朝日の誤報なのか、それとも中国外務省の報道官がウソをついているのか。たぶん、後者のほうだと思う。

 

この点にかんして、朝日は、<中国側が公表を避けた理由は、ちょうど国連安全保障理事会で北朝鮮の2度目の核実験にたいするあらたな制裁決議が議論されていたからだ。国際社会の批判が強まるなか、「北朝鮮にたいして弱腰だと思われるのは不都合」(北京の中朝関係筋)と判断したとみられる>と推測している。

 

わたしは、中国側が公表を避けた理由もさることながら、なぜ 、「後継者・金正雲氏、極秘訪中」、「胡主席・金正雲氏会談に正男氏同席」といった注目すべきニュースが、朝日の北京特派員によってすっぱ抜かれたのか、という点に興味をもった。

 

朝日記事によれば、正雲氏の訪中にかんして中国側は徹底した情報管理をおこなったという。どのていど厳重だったかを、当の朝日記事はこう説明している。

 

<正雲氏の後継内定を公表していない北朝鮮側の意向をうけ、中国側は徹底した情報管理を貫いた>

 

<改革開放の先進地、深圳市のハイテク工場を訪れた際も「中央政府の関係者」とのみ紹介。随行の10人余りの男性も含め、身分や名前は告げられなかった>

 

<北朝鮮筋は、「周囲には気づかれないようにすべて極秘でおこなわれた」と明かす>

 

<宿泊先も、一般客の宿泊が制限されている中国軍関連のホテル。車列を組まずに移動し、外国首脳の視察を必ず取材する国営新華社通信の記者も同行させない徹底ぶりだった>

 

新華社も知らない極秘情報を、どうして外国メディアが察知できたのか。常識的に考えて、これは北朝鮮サイドからのタレこみがあったから記事にできたのであろう。実際、そのことを朝日は隠さない。もちろんタレこみとか、リークといったことばは使わないけれど、<両国を繁雑に往復する金総書記に近い北朝鮮筋と、北京の北朝鮮関係者が明らかにした>と述べている。

 

北朝鮮の情報管理は、中国の比ではない。金総書記は、とくにファミリーの情報にはうるさい。正雲氏の写真がすくないのもそのせいだ。

 

「週刊文春」618日号の<金正日秘書室指導員の「極秘日記」>と題した記事のなかに、こんなくだりがある。

 

<『金正日の愛と地獄』の著書がある国際アナリストのエリオットJ・シマ氏が説明する。

「ファミリーの掟で、顔を公にさらすことや父親の許可なく印刷物にでることが禁じられています。テロや反体制派からの誘いを避けるためで、だから国外へは偽名で出国することが多い。

2006年、エリック・クラプトンのドイツでのコンサートに兄の正哲があらわれ、その姿をフジテレビに撮られたことがありました。このとき、金正日総書記は激怒し、正哲のスケジュールを漏えいした人間を洗うよう命じたそうです」>

 

こういうおっかない将軍様の目が光っているのだから、極秘中の極秘事項ともいうべき正雲氏の訪中を外国の報道機関にもらすのは、まさに命がけの行為ということになる。

 

むしろ、ここは将軍様の意向をうけた人物が、朝日にリークした、とみるほうが、わかりやすい。となれば、<両国を繁雑に往復する金総書記に近い北朝鮮筋>というのは、正男氏サイドということか。

 

ここでもうひとつ、ナゾがとけてきた。正雲氏の訪中直前に、正男氏がマカオで日本テレビとテレビ朝日に連続してインタビューに応じたのを思い出していただきたい。当欄でも、その詳細を紹介したが、これも、今回の朝日報道と関連性が強い、ということになる。

 

いいかえれば、すべては金総書記のシナリオということになるが、こういう見立てはいかがであろう。

 

もし、そうだとすれば、金総書記は、日本テレビ、テレビ朝日、そして朝日新聞を利用して、だれに、なにを伝えたかったのか、ということになる。

 

当初、わたしは、正男氏が、日本のテレビの取材に連続して応じたのは、自分の気持ちを平壌の中枢へ伝えるためではないか、と思った。しかし、これはどうやら見当ちがいで、敵は本能寺というか、北から北京へのなんらかのメッセージだったのではあるまいか。

 

もう一度、2つのテレビインタビューを読み返してみたら、正男氏は、正雲氏の後継を暗に認め、それに異議のないことを示唆していた。これを、きわめて微妙な時期に正雲氏の受け入れを協議している北京に伝えたかったのかもしれない。

 

では、朝日の場合はどうか。これは、北朝鮮をふくむ全世界にたいする、さりげない正雲氏のお披露目の意味合いがあったのではないか。倅は、天下の中国主席と堂々と会談したのだと。そして実兄との関係も良好とも。中国は、時期が時期だけに、北の若殿との会見は公表したくないのが本音。ならば、こちらからリークしてやれ、と将軍様は考えたのではないかと、推測してみたが、ほんとうのところはどうなのだろう。

 

〔フォトタイム〕

 

銀座で写すその4

ときには、上のほうも見上げてみました。

 

 

長くメディアの世界にいたので、有力政治家や、いわゆる政府高官、各省幹部と接する機会が何度かあった。取材前後のあたりさわりのない雑談の際、初対面でも例外なく相手が興味を示したのは、人物論や人事にかかわる話であった。

 

おそらくこれは政界、官界にかぎらず、各界各層、井戸端会議でも共通した現象であろう。

 

そう回数は多くないけれど、さりげなく人物評を問われたこともある。政治家の場合、名前をあげた人が故人であれば、比較的、話しやすいが、現役だと、用心して感想をのべた。こういう場合、調子にのって悪口をいうのは危険だ。どこで、どう利用されるかわからないし、それが自分に跳ね返ってくるかもしれない。

 

もっとも、ヒトの悪口は、往々にして座をもりあげるのはたしか。ただ、有力者とかわす、この手の悪口のキャッチボールは、やり玉にあげられた人の将来に影響することもあるので、そのへんはじゅうぶんに心得ておきたい。

 

人事というのは、いうまでもなく人事権者が、最終的に決定する。人事権者が人事を決める手法は、いろいろあるが、対象者の悪口を耳にしたとき、それが人事権者にどういう影響をあたえるのか、というのは興味あるテーマだ。

 

人事権者の多くは、「たまたま悪口を聞いても、それで左右されることはない」と答えると思うが、消却法でいくときは、耳にはいった風評にかなり影響されるはずだ。

 

ずいぶん、前置きが長くなってしまったが、さて、厚労省女性局長の逮捕のことである。

 

障害者団体むけ割引制度の虚偽有印公文書作成事件で逮捕された厚生労働省の雇用均等・児童家庭局長、村木厚子容疑者(53)は、有能な官僚で、有力な次官候補だったという。

 

村木容疑者は、いまも容疑を否認しているが、大臣官房付に異動となり、たとえ不起訴となっても、次官への道は完全に閉ざされた。

 

村木容疑者は、高知大学を出て、昭和531978)年、旧労働省に入った。労働省では、障害者雇用対策課長、女性政策課長をつとめた。労働省と厚生省がいっしょになって厚生労働省となってからは、障害保健福祉部企画課長に就任。今回の容疑は、企画課長在職中の平成162004)年6月当時のこと。雇用均等・児童家庭局長には、昨年、就任した。

 

「働く女性にとって希望の星だった」(舛添厚労相)という村木容疑者が、不正事件で、せっかくのキャリアを台なしにしてしまった。なぜ、魔がさしたのか。

 

事実関係などは、捜査の進展などをみなければわからないが、推測するに、冒頭であれこれ述べたようなことも関係しているのではないかと思った。

 

報道によれば、この事件には、民主党の国会議員が関与しているという。周知のように、政治家と官僚は、持ちつ持たれつの間柄にある。その度合いは、政治家のほうが、大きいが、官僚にとっても省益の確保に政治家の支援は欠かせない。

 

省益だけでなく、官僚には自分個人の出世のうえでも政治家に弱いところがある。なぜ、弱いかといえば、そのひとつに、政治家の評価がある。官僚は、政治家から高く評価されれば、それは嬉しいだろうが、とくに誉められなくとも、さほど気にはしていない。

 

怖いのは、悪口だ。政治家から、「無能だ」、「礼儀知らずだ」、「部下のめんどうみがわるい」、「勉強不足だ」、「異性にだらしない」といったふうに、なにか言いふらされるのを、いちばん恐れているのだ。

 

とくに、トップをねらう官僚は、政治家のご機嫌をそこねたくない。

 

東大法学部出身者が、はばをきかす霞が関で、地方大学出身の村木容疑者は、どういう思いをしていたのか。たぶん村木容疑者には、地方大学出というハンデはなかったと思うし、それによる差別もうけることはなかったと思う。しかし、村木容疑者は、口にこそ出さなかったかもしれないが、くやしい思いをし、人知れず努力するところもあったのではないか。

 

不正と知りながら(と、まだ断定してはいけないのだが)、ついつい上司や政治家の意向にそってしまった背景には、そういうこともあるような気がする。

 

〔フォトタイム〕

 

銀座で写すその3

銀座4丁目の御木本本店前に紫陽花の歌壇がありました。

 

 

けさ(16日)の朝日新聞は一面トップで、6月10日前後に、<北朝鮮の金正日総書記の3男、正雲氏が、金総書記の特使として中国を極秘に訪問していたことがわかった>と報じた。この時期の訪中は、きわめて重い意味をもつはずで、朝日報道が事実なら、正雲氏の後継は、さらに確定的になったといえよう。

 

訪中したといわれる正雲氏は、記事によれば、<胡錦濤国家主席らとはじめて会談、後継者に内定したことが直接伝えられた。核問題も話し合われ、中国側は6者協議への早期復帰を強く求めたとみられる>とか。

 

6月10日前後といえば、異母兄の正男氏が、マカオで立て続けに日本のテレビ局(日本テレビとテレビ朝日)のインタビューに応じていた頃。兄はラフな格好で、いかにもブータローふう。暗殺未遂情報が流れるなど、なにやら不穏な状況のなかにある。しかるに末弟のほうは、大国のトップとの会談報道。

 

この兄弟の差は、これからますますひらいていくのだろうか。もっとも、北の独裁政権がつづけば、という条件つきだが。

 

記事をつづければ、<正雲氏は610日前後に空路で北京入りした。胡主席のほか、中国共産党対外連絡部の王家瑞部長ら幹部と相次いで会談。正雲氏がすでに金総書記の後継者に指名され、朝鮮労働党の要職である組織指導部長となっていることが、同席した側近から中国側に説明されたという>。

 

正雲氏が、<朝鮮労働党の要職である組織指導部長>に就任しているのが、たしかなら、かれは、党の人事を握ったことになる。

 

ちなみに、正雲氏の次兄、正哲氏は、<ことし3月末に朝鮮労働党の人事、監視、検閲機関として強力な権限をもつ組織指導部の第1副部長(部長は金総書記)に就任していることが確認されたという>(「産経新聞」610日付朝刊)。

 

将軍様は、早くから組織指導部長に就任し、権力の源泉としてきたのは、周知のとおり。ここで気になるのは、次兄・正哲氏の処遇。もし第1副部長のままなら、同じ部署で弟の部下になる。

 

朝日記事は、<金総書記も後継者内定後の19836月に訪中し、当時の最高実力者鄧小平氏や胡耀邦総書記と会談した経緯がある>と伝えている。

 

1983年といえば、18日に正雲氏がうまれていて(べつの説もあり)、現在は26歳。父親が訪中したときは、41歳だった。

 

1983年というのは、殺伐とした事件が起きている。715日に有本恵子さん(当時23歳)が拉致され、109日には、ラングーンで爆弾テロ事件が起き、ビルマを訪問中の全斗煥大統領は、危うく難をのがれた。114日には、第18富士山丸事件があった。

 

記事によれば、正雲氏らは、中国にたいしエネルギーや食糧の緊急援助などを要請したとみられるという。モノをもらうには、それなりの礼節を守らなければならない。そのへんもふくめて、こんごの北の対応を見守りたい。

 

〔フォトタイム〕

 

銀座で写すその2

和光の近くにある、有名なキューピットです。

 

 

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