2009年04月

4月14日、15日の深夜、NHK衛星第1で「マリリン・モンロー最後の告白」というフランスで制作されたドキュメンタリー番組が2夜連続で放映された。この録画をいま、やっと見終えた。ご覧になった方もすくなくないとは思うが、なかなか興味深い内容であったので、すこし紹介したい。

 

モンローは、1962年8月5日、ロサンゼルスで亡くなった。36歳であった。

 

早いもので、モンローの死から、もう47年近くも経ったのである。

 

薬物反応から自殺と判断されたが、モンローの身辺にはマフィアの陰がちらついていたので、犯罪の疑いが完全に消えたわけではなかった。

 

ジョン・マイナーという検察官も死因を疑ったひとりで、すぐにモンローの精神分析医だったラルフ・グリーンソンを訪ね、彼女について事情聴取をおこなった。

 

精神分析医のグリーンソンは、晩年のモンローをもっとも間近でみていた人物であった。

 

それから43年後の2005年、元検察官のジョン・マイナーが、ロサンゼルス・タイムス社に、モンローの声が40分間録音されたテープをもってきた。

 

番組はここからモンローの男性遍歴や結婚生活(大リーガーのジョー・ディマジオや、作家のアーサー・ミラー)や、精神分析医との関係などがドラマチックに展開されていく。

 

モンローと、グリーンソンは、やがて患者と医師の関係を越えてしまう。まとわりつくモンローから逃れるため、外国へ旅立ったグリーンソンの自宅にモンローは電話をかける。

 

留守電に延々と自分のことを話しつづけるモンロー。くだんの録音テープは、この留守電のこと。これが、最後の告白というわけだが、いちばん気になったのは、やはりケネディ兄弟との関係。

 

ニューヨークでひらかれたケネディ大統領の誕生パーティーに招待されたモンローが、悩殺スタイルで、ハピバスディトゥユーをうたうシーンは、ふたりの関係を暗示しているようでもあった。ちなみに会場に弟のロバート夫妻の姿はあったが、ジャクリーン夫人はいなかった。

 

〔フォトタイム〕

 

お台場その7

どことなく、ハワイの雰囲気です。

 

 

14日朝、上坂冬子さん(ノンフィクション作家)が肝不全で亡くなった。訃報を知ったのは、きのうのこと。78歳だった。すでに通夜、告別式は近親者で済ませ、故人の意思により、お別れの会などはおこなわないという。

 

上坂さんらしい、と思った。

 

とはいっても、上坂さんは、パーティーなど賑やかな場が、嫌いだったという意味ではない。出席回数は、そう多くなかったと思うが、ちゃんと義理は果たしていたと思う。

 

ここいちばんのパーティーには、高価な和服姿で、ふんわりとあらわれた。

 

一度、「いったい、着物のお値段はいくらですか」と、ぶしつけな質問をしたこともある。笑って、答えなかったが、相当な額のはず。

 

察するに、上坂さんは、仰々しいお別れの会など、趣味にあわなかったのだろう。実際、そういう会で、上坂さんをみかけた記憶はない。

 

上坂さんが、もっともおカネをかけたのは、取材費ではあるまいか。上坂さんご自身に確認したわけではないが、そんな気がしてならない。原稿用紙にすれば、3,4枚にしかならないことでも、すぐに取材のために外国へ飛んでいったのを思い出す。

 

しかも自分のおカネで行くのだ。多額の取材費や原稿料などとても出せない、つつましやかな編集部にいたので、感謝した(本は、ほかのところで、というので遠慮したのかもしれないが)。

 

出費は、単行本の印税で、なんとか取り戻していたのであろうが、それにしても、有り難かった。

 

生涯を終える直前まで、上坂さんの言論活動は、やむことがなかった。これまで上坂さんの、歯切れのいい言論に納得し、勇気づけられた読者はすくなくないと思う。

 

秋山庄太郎さんにしろ、上坂冬子さんにしろ、目一杯の人生をまっとうした。じつに、羨ましい生き方だと思う。合掌

 

〔フォトタイム〕

 

お台場その6

お台場を散策していると、気持ちがなごんできます。

 

 

すごい人である。超人というか、修道僧のような雰囲気すら感じさせる。イチロー、35歳。張本が日本プロ野球記録の通算3085安打に達したとき、すでに40歳を超えていた。イチローは、あと10年間は、プレイできる。これだけでも記録のすごさがわかる。

 

イチローが、胃潰瘍で開幕から欠場することになったというニュースを耳にしたときは、ヒヤリとした。

 

日本が連覇したWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が終わったあと、ひそかに祈ったことがある。祈るという表現は、ちょっとオーバーかもしれないが、気持ちとしては、それに近い。

 

WBCの選手たちには、それぞれのチームに戻ったあとも、ぜひともWBC以上の活躍をしてもらいたかった。

 

WBCでは活躍したのに、肝心のペナントではさっぱりだったというのでは、どこかで、だれかが、かならず、「ホレみたことか」と揶揄するに決まっている。

 

それだけは、許せない気持ちだった。

 

WBCの選手たちは、いわば国旗を背負って頑張ったのである。あの真剣さは、文句なく国民を感動させた。功労者は、報われなければならない。

 

そうでなければ、この世はすたる。

 

イチローの胃潰瘍は、WBCでのストレスによる可能性が高く、それだけに心配であった。

 

こういうワケで、イチローの満塁本塁打は、ほんとうに嬉しかった。

 

〔フォトタイム〕

 

お台場その5

昔、お台場には、砲台がありました。あたり一帯、緊張した時代もあったのです。

 

 

「週刊新潮」4月23日号の、<朝日新聞「阪神支局」襲撃事件――「週刊新潮」はこうして「ニセ実行犯」に騙された>を読んだ。

 

記事によれば、同誌の早川清編集長は、「実行犯」を名乗る人物、島村征憲氏(65)を取材する記者たちに、最初、つぎの2点を伝えたという。

 

「島村氏はニセ者だという前提で取材し、すべてを疑ってかかること」

「確たる証拠がなければ記事にしない」

 

早川編集長の指示は、簡潔にして完璧だった。

 

これだけ周到な身構えで取りかかりながら、結果として、早川氏は、判断をまちがえてしまった。かつて、同じ雑誌編集者であった者として、その騙されていく心象の変化が、なんとなくみえてくる。これは、ある意味で、よほどクールな編集者でないかぎり、だれもが避けられない陥穽のようなものかもしれない。

 

しかし、誤報は、ジャーナリズムの根幹にかかわる。「虚言を弄する証言者の本質を見抜く眼力がなかったことも、深く恥じ入る」(早川氏)のは、当然のこと。

 

なにが、ベテラン編集者の眼力を曇らせたのか。

 

どことなく、素直でないタイトル、<朝日新聞「阪神支局」襲撃事件――「週刊新潮」はこうして「ニセ実行犯」に騙された>に象徴的に表れているように、この記事の行間にただようのは、事件報道では定評のある「週刊新潮」記者らの無念である。

 

“実名告白手記”の取材班は、当の本人に裏切られたうえに、ほかのメディアや識者から、「取材が甘かったのではないか」、「裏を取らなかったとは、信じられない」と、批判を浴びた。けれども、かれらは、かれらなりに真剣に取材し、念には念をいれたという思いが、人一倍あるはずだ。

 

実際、今回の文面からは、それが痛いほど伝わってくる。

 

たとえば、真冬の網走刑務所の面会室で、「足の感覚が徐々に無くなっていくような寒さに耐えながら」、島村氏を待つ記者たち。

 

あるいは、証拠物を探すため、20箱以上の段ボール箱を、塵まみれになりながら、島村氏と中身をチェックする記者たち。

 

ヘトヘトになりながら告白者の証拠を探しまわった様子は、逐一、編集長に伝えられたと思う。それは、今回の文章の数十倍の中身があったはず。

 

また、本文に、「特に、苦労して捜し出した情報は、その価値が大きく見えてしまうものだ」というくだりがあった。

 

いずれにしても、スタッフが真剣になればなるほど、次第に上司の判断は、その報告を受けいれていくようになる。これは、メディアにかぎらず、一般論でもいえることだ。

 

あとは、スタッフを信頼するしかないのである。

 

ただ、送り手の無念は、受け手への言い訳にはなっても、それ以外のなにものでもないのが、切ないところである。

 

さて、自分がもし、その立場であったなら、どうしたであろうか。いや、よそう。現場からすでに身を引いた人間に、もうそこまで語る資格はない。

 

〔フォトタイム〕

 

お台場その4

海と砂浜と緑。こういうところで寝そべっているのもいいですね。

 

 

14日の午後、葉桜となった上野の森を歩いた。小雨模様のなか、外国人の姿が多かった。

 

14日から上野の東京芸術大学美術館で、「尼門跡寺院の世界――皇女たちの信仰と御所文化」がはじまったので、善は急げと、さっそく出かけたのである(6月14日まで)。

 

尼門跡(あまもんぜき)寺院とは、皇室や公家、将軍家などにうまれた女性が、代々、住職をつとめてきた尼寺のこと。現在は、門跡の出身は、多様になっているが、その精神は脈々と受け継がれている。なかには、1200年の伝統をもつ寺院もあるという。

 

オープンの日を待っていた。

 

みたいと思った展覧会は、行こうと思った、そのときに、行かなければいけない。当たり前のことだが、これがなかなかむつかしい。関心はあっても、はじまったばかりなのだから、あわてることはない、といって、ずるずると延ばして、結局は、見そびれてしまうのが、おおかたであろう。

 

芸大の美術館へむかうときは、東京国立博物館の前を通る。平成館では「阿修羅展」がたいへんな人気を呼んでいるから、そちらへ行きたくなる人が多いと思う。しかし、阿修羅は、時間にもよるけれど、1時間前後の行列を覚悟しなければならない。

 

さいわい、平然と、国立博物館を通り過ぎることができた。理由は、かんたん。阿修羅は、先日、すでにみているからだ。

 

「尼門跡寺院展」も、予想以上のにぎわいであった。尼門跡寺院の仏像、仏具から尼僧ゆかりの文化遺産が、これほどおおがかりに展示されるのは、はじめて。関心を呼ぶのは、当然といえよう。

 

6歳ころから仏門に入る皇女、姫君もいた。だから、尼門跡寺院には、さまざまな人形が残されている。敬けんにして、典雅な文化財の数々を鑑賞して満足したのであるが、残念な思いもした。

 

現在、京都と奈良には13の尼門跡寺院がある。非公開のところもあるけれど、尼門跡寺院をまだ、ひとつも訪れていないというのは、なんともわびしい。

 

なお、13の尼門跡寺院とは、つぎのとおり。

中宮寺、法華寺、宝慈院、大聖寺、本光院、宝鏡寺、曇華院、光照院、三時知恩院、慈受院、円照寺、霊鑑寺、林丘寺。

 

〔フォトタイム〕

 

お台場その3

東京にも、こういうところがあるのです。右奥にレンボーブリッジがみえます。

 

 

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