2008年03月

桜の名所でたいせつなのは、交通のアクセス、ロケーション、借景、広場などいろいろあるが、なかでも本数が重要だ。ソメイヨシノ30本と、100本では、どうしても後者のほうが勝る。なにしろ花見では、ダンゴとともに、そぞろ歩きや人出というのが大切な要素で、それには、桜の本数が多いほうがよい。実際、5、6本ていどでは、なかなか様(さま)にならないし、花見の人々もぱらぱらでは、どうも雰囲気がわいてこないのだ。

 

日本人は、桜にわけもなくメロメロになるが、自分の庭に桜の木を植えているわけでもない。毛虫のつくのが嫌がられるうえ、大木になる桜を植えるだけの広い庭をもつ家庭は限られているので、庭木という点では、梅に一歩譲っている。

 

もともと京都などでは、一本桜を愛(め)でるのが、昔からの花見のスタイルだったようだ。公家などの上流人は、広い敷地に住んでいたので、桜の木を植えていたのだろう。そこで、思ったのだが、みんなとわいわい騒ぐ花見の宴は、従来どおりつづけるとして、昔の風流人の心意気を拝借して、自分だけの一本桜をもつ、というのはどうだろう。

 

「わたしの一本桜」は、近所の公園でもよいし、どこかの土手の桜でもよい。むろん、六本木あたりのなかの一本を、自分のひいきの一本桜にしてもかまわない。あるいは、六義園のしだれ桜でもいい。そのかわり、できれば、毎年、その一本桜と対面し、こころのなかで、自分だけの一本桜に1年間のぶじを感謝したい。

 

友だちを誘うという煩雑さもなく、弁当をつくる心配もなく、その日の天候をみながら、ひとり静かに、「わたしの一本桜」を愛でる。こういう、典雅な花見のスタイルをもつことも春の季節に彩りと、うるおいを与えるのでないか。

 

〔フォトタイム〕

 

隅田公園その1

浅草の吾妻橋から細長く隅田公園が、隅田川に沿ってつづきます。

産経新聞3月28日付の1面コラムの曽野綾子さん(作家)の題、「小さな親切、大きなお世話」が、面白い。曽野さんは、<世の中のことは、家庭内の軋轢(あつれき)から職場の付き合い、教育や国際政治にいたるまで「小さな親切、大きなお世話」の連続だろう。人間も国家も、表面的善人ほど、他人の領域に正義や人間性を理由に口を出す」と述べているが、皆それぞれにひとつや、ふたつ思い当たることがあるにちがいない。

 

日々の生活のなかでも、「小さな親切、大きなお世話」に類した話は、すくなくない。たとえば、電車のなか。座席にすわっていたとき、ドアがあいて、品のよい白髪の女性がはいってきて、前に立った。「どうぞ、お座り下さい」とはいわず、そっと、立ち上がって、ドアのほうへ移動した。自分では、自然をよそおって、相手に負担をかけずに、席を譲ったつもりであった。しかし、年配の女性は、前の席が空いたにもかかわらず、座らなかった。これさいわいと、中年の女性が、横のほうからすべりこんだ。

 

ドイツのある博物館で、「日本人ですか」と、年配のドイツ人から声をかけられた。そのとき、この人に対して、「これは、なんですか」という、唯一知っているドイツ語を使ったのが、大失敗であった。ふだんも親切な老人なのだろう、延々とドイツ語で説明をはじめた。こちらは100%、わからないのだが、あまりにも熱心なので、ついつい、あいづちをうってしまった。知ったかぶりをして、ほんとに申し訳のないことをしてしまった。だから、決して「小さな親切、大きなお世話」というつもりはない。

 

曽野さんの「小さな親切、大きなお世話」というタイトルにつられて、つい駄文をつらねてしましたが、皆さんの体験談もお聞かせ下さい。

 

〔フォトタイム〕

 

丸の内とチューリップその7

3月20日と23日には、チューリップの鉢植え4300個が、先着順で無料配布されました。来年もまた、このイベントは、ひらかれるはずです。



中国のギョーザ事件や、チベット騒乱の陰にかくれて、このところ北朝鮮の存在感が薄れがちであった。まさか、わざと目立とうとしたわけではあるまいが、またぞろミサイルを発射したとか、開城(ケソン)団地から韓国職員を追放したとか、荒っぽいニュースが伝えられている。そういう情報も、もちろん気になったが、もっと驚いた北朝鮮情報があった。

 

日本経済新聞3月27日付朝刊によれば、<北朝鮮北東部の清津(チョンジン)で今月4日、市場で商売できる年齢を50歳以上に制限されたことに対し、1万人以上の女性が抗議する騒ぎがあったことがわかった。韓国の対北支援団体が26日付のニュースレターで伝えた内容を聯合ニュースが同日報道した>という。

 

北朝鮮で、これまで1万人以上という大勢の民衆から抗議があったという話は聞いたことがない。しかも、記事によれば、<市場の管理事務所が50歳未満の女性を強制排除したところ、反発した女性が集団で「食べていけるように商売をできるようにしろ」などと抗議した。一時は緊迫した状況になったが、保安当局は騒ぎの鎮圧には乗り出さず、年齢制限措置を解除したという>のである。

 

もし、事実とすれば、独裁国家に変調が生じたのだから、画期的な出来事といえる。とくに注目されるのは、抗議した女性たちの要求が認められた点だ。詳しい情報がわからないので、軽々しく判断してはいけないが、金正日総書記が、中国にならって市場経済へ舵を切ったのはたしか。方針転換のもと、商売で経済力をつけてきた女性集団のパワーに、当局もタジタジというのが実景なら、こんごの北朝鮮を暗示しているようにも思えて、大いに興味をそそられるのである。

(しばらくコメント、やすみます)

 

〔フォトタイム〕

 

丸の内とチューリップその6

赤であれ、黄であれ、ピンクであれ、チューリップはきれいですね。

『ニューズウイーク日本版』3月19日号に、同誌のメリンダ・リウ北京支局長が、「孔子の教えを忘れた中国」という記事を書いている。中国で一人っ子政策が導入されたのは、30年前。爆発的な人口増に歯止めをかけるためであった。この政策が実施されると、多くの夫婦が、男の子を望み、間引きや中絶で男女のバランスがくずれていった。

 

リウ支局長によれば、ふつうなら女子1に対して男子1・03~1・07でうまれてくるはずなのに、中国では男子の比率が約1・18と異常に高いという。

 

ところが、最近の中国社会では、これまでとはちがった変化がみられるそうだ。老後を考えて、娘を望む夫婦がふえているというのだ。南京大学の風笑天教授が、「女の子のほうが思いやりがある」からだと、コメントしていた。中国青年報が昨年はじめに29の省と都市で実施したオンライン調査では、回答者2603人のうち、29%は娘がほしいと答え、息子がほしい人は28・4%だったとか。

 

こういう傾向は、日本でもいえるかもしれない。最近、聞いた話だと、二世帯住宅は、いま流行らなくなったそうだ。

 

なお、中国の一人っ子政策は、次第にゆるやかになってきているらしい。いびつな人口構成もさることながら、成長した一人っ子たちの、あまりにも自己中心的な性格に、この政策の危うさを感じたのかもしれない。さりとて、なにも対策なしに放置すれば、ふたたび人口増に苦しむことになる。悩み多き中国ではある。

 

〔フォトタイム〕

 

丸の内とチューリップその5

四季をつうじて、これくらいの花畑があったら、丸の内は、さらに評価がたかまるでしょうね。

桜の季節に、とんでもない事件があいついでいる。ついに岡山市では、「殺すのは、だれでもいい」という、危険きわまりない少年(18)が現れた。背筋がぞっとする。土浦市で通行人ら8人が死傷した事件もまた、通り魔(24)の仕業だった。

 

白昼、駅の構内で刃物をもった男とすれちがうなど、だれも想像もしていないし、ホームでうしろから突き飛ばされるなんて、予想すらできない。安全は、空気のようでなければ、安心して暮らせない。どうして、こんな怖い世の中になってしまったのか。突き落とし殺人の少年の父親は、むすこに不審な予兆は、一切なかったと、語っていた。無差別殺人の予備軍を見つけだすのは、途方もなくむつかしい。

 

この少年も、「まじめでやさしい」「成績も優秀」という評判だった。事件のたびに、同じような犯人評がきかれる。こうも「まじめでやさしい」人間の犯行が多いと、善人研究というものを、徹底的におこなう必要がありそうだ。考えてみれば、いかにも悪人ふうの人物に対しては、だれしもそれなりに警戒し、身構えているので、むしろ安全かもしれない。

それにしても、この国は、「まじめでやさしい」人間を信用できない社会になってしまったのか。

 

そもそも、「まじめでやさしい」という評価は、世間にさらした外面(そとづら)から得られたものにすぎない。内面(うちづら)は、肉親でさえ、わからない。だから、事件のたびに、「信じられない」ということばがきかれるのだ。いずれにしても、他者が、その心の闇を理解し、解きほぐしてやるのは、まったく不可能ではないが、至難のわざといえよう。

そのうちに、「あの子は、ふまじめで、やさしくない」と、評判の子のほうが、世間では、好かれる存在になるかもしれない。そういう歪(いびつ)な社会の到来だけは、ごめんこうむりたいが。

 

〔フォトタイム〕

 

丸の内とチューリップその4

丸の内界隈は、すっかりかわりました。オフィス街にして、ブランド街。そしてグルメ街でもあります。

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