2008年01月

事件を新聞で知ったとき、真っ先に思ったのは、逮捕された女性の純情さであった。罪を犯した人間に対して、純情というピュアなことばを使うべきではないかもしれないが、それが率直な感想であった。そういう気持ちになったのも、最近、試写会でみた映画『ランジェ公爵夫人』(原作バルザック)のせいでもある。

 

1月25日付の産経新聞によれば、名古屋市に住む女性(元会社員、30歳)は、平成13(2001)年末に携帯電話の出会い系サイトで知り合い、一度も会ったことがない男(無職、32歳、住所不定)に、翌年春ごろから、「親が病気になった」とカネを無心された。はじめのうちは、借金などして送金していたが、経理担当だったので、そのうちに会社のキャッシュカードを使うようになった。

 

ふたりを窃盗容疑で捕まえた愛知県警港署では、送金額は、合わせて約1億3000万円とみているという。分別のある女性では、とても考えられない行為。顔も知らない男に、これほどの大金を貢ぐとは、あきれてものもいえない、なんと間抜けな女よ、といいたいところだが、ちょっと、踏みとどまって、この女性の気持ちを思ってみたい。

 

女性は、調べに対して、「交際を続けたくて、会社のカネを引き出してしまいました」と供述しているという。要するに、惚れてしまったのだ。古今東西、男と女の関係では、惚れたほうが、圧倒的に弱い。岩波ホール創立40周年記念作品として4月5日からロードショーの『ランジェ公爵夫人』(ジャック・リヴェット監督、2006年、フランス・イタリア合作映画)のテーマが、まさにそうだ。

 

19世紀初頭のパリ貴族社会。社交界の華、ランジェ公爵夫人は、英雄として凱旋した武骨な将軍を思わせぶりな振る舞いで翻弄する。公爵夫人の媚態を愛と錯覚した将軍は、相手の邸宅に通いつづけるが、いつも拒絶されるばかりであった。追いつめられた将軍は、公爵夫人を誘拐。それがきっかけとなって、公爵夫人は将軍へと傾き始めるが、こんどは将軍が、公爵夫人を徹底的に無視する。将軍を追いかける公爵夫人。フランス流の恋の駆け引きは、日本人には、わかりづらいところもあるが、それはともかく、公爵夫人と将軍の立場は、完全に逆転したのである。

 

じつは、将軍の完全無視は、自分のほうへひきつけるための作戦であった。作戦は、みごとに成功したが、ボタンのかけちがいで、公爵夫人は失意のうちに、修道院へ入ってしまう。将軍は、ようやく孤島の修道院にいる公爵夫人を探し当てるが、その気持ちを変えることは、もはや出来なかった。

 

ふたたび、名古屋の女性に戻るが、彼女は、一途に男を思い、男のほうも、そういう彼女の真面目さをうまく手玉にとって、ときには、素っ気なくしたりして、焦らしていたのだろう。会社のカネを盗んだ女性でも、ワルに翻弄された日々を思えば、とんでもない悪女と決めつけるのは、どうも可哀想な気がする。

 

〔フォトタイム〕

 

上野公園その6

上野の山は、あさ、ヒル、夕刻、いつ来ても風情があります。

東京郊外の、ある私鉄の駅の近くにボクシングジムがある。通勤コースにあるので、ジムの練習は、毎度お馴染みの光景だ。ときには、若い女性が、勇ましくも、練習に励んでいたこともあった。護身のためか、あるいは、単なる運動のためか。若者たちにまじって、40代後半の男性が、サンドバッグを叩いているときもあった。そのチャレンジ精神は、たいしたものと感心した。

 

練習熱心な若者たちの熱気が、ガラス戸を通して道路まで伝わってくるような日もあった。それが、いつからか、練習している人たちの数が、だんだん少なくなっていったのである。まさか、例の亀田問題のせいではあるまいが、閑古鳥の鳴くボクシングジムは、ちょっと気になる風景だ。練習生の減少は、入試シーズンの一時的な現象であればいいが、と、他人事ではない気持ちである。折も折、「週刊東洋経済」1月26日号に、「ボクシングはジムも選手も綱渡り」という記事があった。これで、はじめてボクシングジムの実態を知ったので、すこし紹介してみたい。

 

記事によれば、ボクシングジムは、全国に270もあるという。予想以上に多い。ボクシングジムの基本収入は、大きく分けて2つあるという。1つは、練習生たちの月謝。もう1つは、試合の主催で得られる興行収入。しかし、後者は、多くの場合、採算は取れないとか。したがって、頼みは、月謝しかない。だとすれば、練習生の減少は、ジムにとっては、死活的な問題ということになる。

 

プロボクサーも、あまり恵まれていないようだ。記事によれば、ボクサーには、所属ジムから支払われる俸給はなく、試合で得られるファイトマネーが収入のすべてとか。そのファイトマネーも、プロテストに合格したばかりのC級ボクサーで、1試合6万円。そのうち33%はジムの取り分となり、実際に選手の手元に残るのは、わずか4万円だという。日本チャンピオンクラスで、1試合100万円くらい。年間にこなせる試合数は、3~4試合のため、王座についてもアルバイトをしないと生活できないという。ボクシング界のきびしい現実を、この記事によって、はじめて知った。それでも、全国各地のボクシングジムには、未来のチャンピオンを目指して、練習にはげむ若者たちがいることを忘れてはなるまい。

 

〔フォトタイム〕

 

上野公園その5

上野公園を訪れる人たちの目的は、展覧会へ行くとか、動物園とか、さまざまです。そんな目的などなくとも、行けば、何か得るところがあるのも、上野の山、といえるでしょう。

早いもので、ことしは、俳優の松田優作の20回忌ということになる。昨年だったか、一昨年だったか、テレビで優作をしのぶ特集番組を放映していた。長身でカッコよく、憂いをふくんだ、ニヒルな表情の優作を慕うファンは、いまなお多いという。優作は平成元(1989)年11月6日夕刻、入院先の三鷹駅近くの西窪病院(現・武蔵野陽和会病院)で亡くなった。息を引き取る寸前、その目から一筋の涙がこぼれ落ちたという。膀胱がんであった。優作は、昭和24(1949)年9月21日の生まれだから、まだ40歳であった。

 

きのう、帰宅途中の電車で、刊行されたばかりの松田美智子著『越境者 松田優作』(新潮社)を読んだ。乗り換えでホームに立って電車を待つ間も、読みつづけた。元女優の著者は、現在はノンフィクション作家。優作の元妻であるから、内容に迫力があった。昭和50(1975)年に優作と結婚し、長女をもうけた。しかし、同56(1981)年に離婚。ふたりが知りあったのは、結婚する4年前。ともに21歳で、俳優の金子信雄が主宰していた「新劇人クラブ・マールイ」の生徒であった。同棲時代をふくめ、11年間、生活をともにした著者は、優作と出会ったときの印象をこう書いている。

 

<黒々としたウエーブがかかった長髪、濃い眉毛とその下の強い光りを宿した目、くっきりとしたラインを描く唇が特徴的な面長の顔。スチール製の椅子に背をもたせる形で腰掛け、やや窮屈そうに脚を組んでいるのが優作だった>

 

同書によれば、優作の身長は183㌢で、鍛え抜かれた外見的な男っぽさとはべつに、つねに悩み、模索し、ときに暴走して人を傷つけ、自分も傷ついていたという。同棲して、まず驚いたのは、優作の入浴好きだった。銭湯にほぼ毎日のように通い、著者のほうは、いつも20分近く待たされた。優作は、小学生のときに自転車が転倒し、そのとき腎臓を傷めた。その後、結核にかかり、片方の腎臓が機能しなくなった。そのため身体を温めて汗を出す必要がある、と優作は考えていた。そのご、優作は、華やかなスターとしてもてはやされるが、いつも病魔に苦しめられていたのだ。

 

ふたたび同棲時代の話。暮れも押し迫ったころ、部屋の掃除をしていた著者は、床に落ちていた黒い定期入れを拾い上げた。<古びた二つ折の定期入れを開くと、片方には名刺が数枚入っていて、もう片方には優作の顔写真の下に、「金優作」という文字がプリントされた、免許証のようなカードが入っていた。常時携帯が義務付けられている外国人登録証明書だった>。著者は、その定期入れを、優作が脱ぎ捨てたGジャンのポケットに入れ、見なかったことにした。優作の死後、著者は、下関を訪れ、その生い立ちを取材したが、それは本書にゆずることにする。

 

〔フォトタイム〕

 

上野公園その4

前方の建物は、国立東京博物館です。昔、この博物館のあたりに寛永寺の本坊がありました。

世界同時株安である。けさの産経新聞に出ている、「日経平均株価採用銘柄の下落ランキング」(12月28日~1月22日)をみると、3割以上ダウンしたところが、6銘柄もあった(日立造船、オークマ、Jフロント リテイリング、東邦亜鉛、ダイキン工業、ミツミ電機)。かりに300万円相当のものなら、あっという間に100万円が消えてしまったことになる。100万円といえば、なんでも買えるし、海外旅行は何度も可能だ。

 

けさの朝日新聞によれば、鳩山邦夫法相は、1月22日の閣議後の記者会見で、ブリヂストンの株価下落で40億円損をしたことを明らかにしたという。「わたしが、損をしたということは、兄(鳩山由紀夫民主党幹事長)も40億円損をしたということ。『兄弟同時損害』ということでしょうね」と話したという。

かつて、東京・文京区の音羽御殿で、鳩山兄弟の母親、安子(やすこ)さんにお会いしたことがある。安子さんは、大正11(1922)年、福岡県久留米市で、ブリヂストンの創業者、石橋正二郎氏の長女として生まれた。東京府立第2高女(現竹早高校)、女子学習院高等科に学び、昭和17(1942)年、大蔵官僚の鳩山威一郎氏(のちに外相)と結婚。2男1女をもうけた。こういう関係で鳩山兄弟は、祖父からブリヂストン株の贈与をうけていた。「鳩山家とは、どういうご縁でしたか」と、尋ねたところ、安子夫人は、こう語った。

 

「鳩山の家と、わたしの里の家と、両方に親しい方が、お仲人をしてくださいました。そのころ主人は、軽巡洋艦『長良』に乗っていました。わたしのほうは、ただふつうの娘として学校へ行ってました。

軽井沢の別荘が、1軒おいて隣で、わたしはよく自転車で鳩山の別荘の前を通りました。鳩山の父(一郎氏)が、お庭の手入れをしているのをみて、ああ、鳩山さんがいらっしゃる、と、通りながらみていました。まさか、自分が、その家の人間になるとは、夢にも思っていませんでした」

 

そういって安子夫人は、にっこり微笑んだ。鳩山一郎氏が首相のころ、音羽御殿には、一郎夫妻と威一郎一家5人、それに使用人13人がいたという。安子夫人から聞いたお話は、いずれまた紹介したい。

 さて、ふたたび、鳩山兄弟の“兄弟同時損害”の件だが、いうまでもないが、40億円の損失といっても、それは売ったときのこと。創業家の株主として、そうかんたんには売買することもあるまい。安定株主だからこそ、損失も気安く口にできるのだろう。もっとも、40億円の損ということは、言い換えれば、いかに保有株が多いか、ということ。こういうサイフの中身にかんする邦夫氏の発言を由紀夫氏は、どう思っているのだろうか。

〔フォトタイム〕

 

上野公園その3

昨年の11月中旬に撮りました。晩秋の上野公園、中央噴水付近です。

 

各自治体には、熟年世代を対象にした勉強の会がある。そういう会に参加する人たちは、向学心に富み、好奇心が旺盛で、表情も溌剌としている。歳をとれば、体力、財力には、如何ともし難いものがあるが、せめて気力だけは、いつまでも若々しくありたいものだ。

 

先日、東京郊外のパブで二次会があった。化粧室に入ったら、「長寿の心得――人生は山坂多い旅の道」という張り紙が目に飛び込んできた。なかなか面白い文章で、思わず読んでしまった。本や雑誌などでは、あまりお目にかかれない内容。ママさんにお願いして、書き写してもらった。

 

還暦(かんれき)――60歳でお迎えの来た時は、只今、留守といえ

古稀(こ   き)――70歳でお迎えの来た時は、まだまだ早いといえ

喜寿(き じ ゅ)――77歳でお迎えの来た時は、せくな老楽、これからといえ

傘寿(さんじゅ)――80歳でお迎えの来た時は、なんのまだまだ役に立つといえ

米寿(べいじゅ)――88歳でお迎えの来た時は、もう少しお米を食べてからといえ

卒寿(そつじゅ)――90歳でお迎えの来た時は、そう急がずともよいといえ

白寿(はくじゅ)――99歳でお迎えの来た時は、頃を見てこちらからボツボツ行くといえ

気はながく、心はまるく、腹たてず、口をつつしめば、命ながらえる

 

長寿の秘訣には、いろいろあるが、たしかに気持ちの持ち様は、とても大切だ。そのことをユーモラスに表現したのが、この格言である。いまや、100歳の時代。白寿のつぎに、あと2つか3つ、造語の必要があるようだ(「長寿の心得」の原作者のお名前がわかりましたら、教えてください)。

 

〔フォトタイム〕

 

上野公園その2

上野の山に来ますと、心が休まります。明治6(1873)年に公園となりました。

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