2007年09月

あす発売の、『正論』11月号の連載コラムで、さかもと未明さん(漫画家・作家)が、「安倍さんの無念を思う」と題したエッセイを書いている。さかもとさんの文章には、安倍さんに期待してきた人々、とりわけ多くの女性が感じたにちがいない、驚き、喪失感、怒り、悲しみ、無念、願望などが語られているように思った。むろん、それは性別を超えた感情ではあるが、女性の視点からみごとに事象をとらえていくのが、未明流のすごさである。

 

さかもとさんは、安倍さんを、気力の充実した、政治家として、また男として、その使命をはっきり自覚したひとだと思っていた。だから、その辞任に、嵐の襲来を前に、家族を守ってくれるはずの父親が突然倒れたような喪失感に沈んでしまいそうだったという。なぜ、さいごまで戦おうとしないのだろう、なぜ同じ倒れるなら背中をみせるのではなく、前のめりに倒れないのだろう、と、怒りにも似た感情が込み上げてきたとも。

 

<志は立派なのだが、四角四面すぎてクラスをまとめられない優等生委員長よりも、他校の生徒に絡まれたときに、ガツンとやってくれる“ワル”の匂いのする劣等生のほうに、結局、女は好かれるものだ、などと譬(たと)えたら不謹慎にすぎるかもしれないが、安倍さんの辞任会見をみながら、わたしは、そんな思いを拭(ぬぐ)いきれなかった>

 

さかもとさんは、この文章をつぎのように結んでいる。

<安倍さんは、さぞや無念だったろうと思う。報じられているよりも深刻な体調の問題がおありになったのかもしれない。わたしは、その無念の思いを汲みたいのだ。だからこそ、辞め方に対し、「なぜ」の思いが募(つの)る。せっかく「強行採決17本」などと、サヨク・マスコミから危険なイメージで語られるのだから、「戦後レジーム」打破のために徹底した“ワル”を演じ通してほしかった>

これは、男女を問わず、安倍さんを支持した人たちの気持ちでもあったように思える。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

10月1日、キンモクセイ香る(猿江・雑司が谷)、アベリア開花(宇喜田)。

10月2日、大安。カモ飛来(尾久の原)、ジュウガツザクラ開花(武蔵野)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その7

大殿ちかくにある、少年時代の法然上人像。法然は、浄土宗の宗祖ですね。



 

35年前のきょう、日中の国交が正常化しました。田中角栄首相と周恩来首相が、日中共同声明に署名し、握手した日ですね。9月26日夜に放映されたNHK「その時、歴史が動いた」300回記念の、「日中国交正常化35周年」をご覧になった方は多いと思います。

 

あの番組で印象に残っているのは、病に倒れた後の田中さんが、当時の江沢民総書記の招きで北京を訪れる映像でした。出発から江総書記との会見まで、すでに生気をうしなった田中さんですが、これほどまでに克明に世間に姿をさらしたのは、おそらくはじめてではないでしょうか。田中家の承諾をえたうえでの放映にちがいない、と思いました。時、あたかも福田康夫首相の誕生というとき、なにか因縁めいたものを感じました。

 

中国では、古来より井戸を掘った人を大切にしてきたといわれています。田中さんは、日中正常化という井戸を掘った人。たしかに、中国共産党政権の田中さんに対する礼遇ぶりは、たいへんなものでした。礼遇と冷遇、おなじ発音ですが、このちがいの差は、体験してみるまでもなく、とてつもなく大きいものです。だれだって、いつまでも礼遇されたいですよね。中国の場合、肩書きがはずれても、その待遇があまり変わらない人がいます。とにかく、死ぬまで、徹底的に尽くすのです。

 

なぜ、そうするか。かつて中国共産党の党官僚だった人が、著書で理由を明かしていました。その本によりますと、すでに引退した外国人の元首脳で、これはと思う人を礼遇するのは、その国の現役の首脳への、「中国を大切にすれば、あなたも引退したあと、このように歓待されますよ」というメッセージなのだそうです。ほんとか、どうか、確証はありませんけれど、かつて党の中堅幹部だった人の説明なので、つくり話とも思えず、なるほど、と感心したものです。田中元首相を歓待した江総書記の意図は、どうだったのでしょう。NHKのあの場面の放映をみながら、これもまたなにかのメッセージなのかな、という気もしたのですが、それは考えすぎかもしれませんね。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

9月29日、ジュウガツザクラ開花(小山田緑地)。

10月1日、キンモクセイ香る(猿江・雑司が谷)、アベリア開花(宇喜田)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その6

安国殿の裏手には、赤い毛糸の帽子をかぶった可愛い地蔵尊が、たくさん並んでいます。前に風車(かざぐるま)があって、勢いよく回っていました。



兄弟のように仲のよかった中国と北朝鮮ですが、すでに両国は冷えた関係にあることは、だれの目にもあきらかです。かつて、中国とソ連が仲たがいをして、それが米中、あるいは日中の接近をもたらしました。こういう国際政治の、いわば定石を絵に画いたような、米国と北朝鮮の急接近が、いま進行しています。

 

これは、中国にとっては、とても気になる動きです。もちろん、日本に与える影響は大きいですね。きのう、NHKのBS7「アジア・クロスロード」で、当欄ではお馴染みの香港PHXの時事討論会が放映されました。テーマは、「米朝関係は急速に正常化するか」で、まさにこの問題が焦点となっていました。

 

出席者は時事評論家の劉瀾昌氏、香港珠海書院教授の譚志強氏、大学教授(どこの大学かは不明)の朱顕龍氏で、司会は劉慶東氏でした。この微妙な問題を中国の識者はどう考えているのか、興味のある方も多いと思いますので、ひさしぶりに香港PHXの時事討論会をお届けしたいと思います。

 

司会 先日、米国と北朝鮮の代表が、スイスのジュネーブで2日間にわたって核問題について協議をおこないました。その結果について、北朝鮮側は、9月3日のニュースで、「米国は、北朝鮮をテロ支援国家のリストからはずすこと、敵対的な制裁措置も改めることに同意した」と伝えました。

これに対して米国側は翌日の4日、「リストからはずすかどうかは、こんごの北朝鮮の対応次第である、つまり北朝鮮が核施設の無力化を実現できるかによる」と述べました。このニュースからわかることは、米国と北朝鮮の関係が正常化にむかっているということです。

そこで、きょうは、「米朝関係は急速に正常化するか」について討論します。

 

劉瀾昌 わたしは、楽観的にみています。おそくとも年内に実現します。すくなくともブッシュ政権がおわる前には、両国の関係は正常化すると思います。

 

司 会 退任までに、ですね。

 

劉瀾昌 そうです。ブッシュ政権が任期をまっとうする前に、正常化を実現することは、おおいに考えられます。

 

司 会 楽観的すぎませんか。

 

劉瀾昌 いいえ。たしかな理由があります。まず、さきほどのニュースですが、北朝鮮は米国より先に会談の中身を発表しました。それに対して、米国のヒル国務次官補は、一定の否定はしたものの、まったく根も葉もない話ではないように思えます。北朝鮮は米国の本心を引き出すために先手を打ったのです。

このような話がでた以上、米朝は6か国協議という枠組みを飛び越えたともいえます。つまり米朝2国間交渉という形ができつつあるのです。

また、この交渉の結果は、中国政府の考えを大きく越えたものがありえるとも思います。キム・ジョンイル(金正日)氏は、人にコントロールされるのを嫌う人物です。かれは、米国と直接交渉に乗り出しているのかもしれません。

そして、ブッシュ政権は、“米朝関係の正常化”という成果をほしがっているのです。ブッシュ政権は、このところ、外交政策でことごとく失敗しています。ブッシュ大統領は、APECに出席するために訪れたオーストラリアで、イラクへの米軍の増派が成果をあげていると過大評価し、イラクでは兵力の段階的削減の可能性を示唆しました。しかし、削減の時期と規模については、あきらかにしていません。こうでもいわないと、つぎの大統領選で与党、共和党が勝つのがむつかしいことをブッシュ大統領もわかっているのです。

このような情勢のなか、ブッシュ大統領にとって外交面での成果が、なによりも重要になってきました。そして、もっとも成果を得られる可能性があるのは、“北朝鮮の核問題の解決”なのです。

 

譚志強 歴史をふりかえって考えてみると、それほどかんたんに進むとは思えません。たしかに米朝関係の正常化というのは、国交樹立にむけたものですが、それには、いろいろな事情がからむものです。

たとえば、中国と米国の場合、1971年に当時の米国の安全保障問題の顧問が、ニクソン大統領の代理としてひそかに中国を訪れて、周恩来首相、毛沢東主席に会いました。そして翌年には、上海コミュニケが発表され、国交樹立も間近と思われていましたが、それから7年もかかりました。その主な原因は、中国が米国に対して、米国と台湾が結んだ相互防衛条約を破棄すること、台湾から米軍を撤退させることなどの要求をだし、米国はその対応をはっきりさせなかったからです。

 

≪当時の米国の安全保障問題の顧問というのは、キッシンジャー大統領補佐官のこと≫

 

米国は、ウォーターゲート事件やフォード大統領の辞任など、さまざまな国内問題をかかえ、中国もまた、文化大革命や毛主席の死去、4人組逮捕などゴタゴタがつづきました。

いまの北朝鮮と米国も同じようなことがいえます。現在の北朝鮮は、長男のキム・ジョンナム(金正男)氏を急きょ、呼び戻すなど、指導者の後継問題でゴタゴタしているようです。それに、関係正常化の話し合いで北朝鮮が都合のよい要求をもちだすかもしれません。したがって、米朝関係の正常化は、容易ではないと思います。

 

≪中国の識者のなかに、金正男が後継者として再浮上したとみる向きがあることに注目≫

 

朱顕龍 では、わたしにもいわせてください。米朝関係は核問題の交渉の進展、すなわち北朝鮮が核兵器の開発を放棄することに同意したことによって、いくらか改善したといわれています。

しかし、わたしは、核問題の交渉の進展は、米朝関係の抜本的な改善ではないと思っています。核開発問題は、米朝関係の諸問題の1つにすぎません。核以外に、やっかいな難問がいくつもあります。たとえば南北関係。これはきわめて重要な問題ですが、何の進展もありません。

また、米国と北朝鮮のイデオロギーがちがうという問題もあります。

もう1つあります。北朝鮮は、地政学的にロシアと中国の側につくことを戦略にしています。この戦略は、かんたんに変えられそうもありません。いまの北朝鮮は、米国と中国が関係を正常化したときの状況とは異なります。当時の中国にとっては、米国と国交を結ぶことで旧ソ連を敵にまわすことに迷いなどはありませんでした。しかし、いまの北朝鮮は、中国とロシアの関係をきっぱり切り捨てて、全面的に米国につく必要があるでしょうか。そうしなければならない理由はないと思います。ですから、わたしは、最近の核問題をめぐる米朝の和解は、国交正常化につながる関係改善ではないと思います。

 

≪北京政府の願望を代弁したような意見、といえる≫

 

劉瀾昌 では、おふたりのご意見にお答えします。まず、米朝間の最大の対立は、北朝鮮の核問題だけです。それから、当時、なぜ中国と米国の国交正常化に時間がかかったかというと、それは“台湾問題”があったからです。台湾問題は、いまでも未解決のままで、障害になっています。ニクソン大統領が訪中した際、米国は、両岸の人はともに中国人であると強調し、上海コミュニケのなかでは、米国は、「両岸の人が、台湾を中国の一部だと考えている」ことを認識したとしています。にもかかわらず、米国は台湾問題に対して、あいまいな態度をとってきました。しかし、今回、台湾の陳水扁総統が、「国連加盟のための住民投票をおこなう」といいだしたことに対して、米国はやっとあいまいな態度をやめて、反対の立場を表明しました。つまり、同じ問題ではない、ということをいいたいのです。いまさら、イデオロギーのちがいなど、問題ではありません。

さらに、もう1点。北朝鮮がやっているのは、小国の外交ゲームにすぎません。その代表的な特徴といえば、いたちごっこです。複数の国の間をぐるぐるまわって、それぞれにおねだりして、いっこうに問題を解決させないという手法です。キム・ジョンイル(金正日)氏は、米国、ロシア、中国、この3つの大国をぐるぐるまわって、自分にとって最大の利益を得ようとしています。ですから、さきほど譚さんのおっしゃっていたことは、すべてまちがっていると思います。

 

司会 きょうのテーマは、「米朝関係は急速に正常化するか」ですが、視聴者の投票結果は、楽観的でないほうに傾いています。「正常化する」が30・61%、「正常化しない」が69・39%でした。

≪当然、中国は政府も国民も、米朝の国交正常化は望んでいないので、それがこういう結果になったのであろう。日本の世論もまた、これに近いのではあるまいか≫

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

9月28日、コナラ紅葉・どんぐり落果(光が丘・長沼・平山城址)。

9月29日、ジュウガツザクラ開花(小山田緑地)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その5

安国殿(あんこくでん)で、ここに有名な黒本尊がまつられています。黒い仏体は、阿弥陀如来像で、家康の護持仏(ごじぶつ)でした。



 

昔は、組閣があると、努力して大臣の名前を覚えたものだ。だから問われれば、9割以上はすらすらと答えられたと思う。それが、いつからか、ひどいときは6割くらいしかわからないときもあった。とにかく大臣が、くるくる代わる。とてもじゃないが、覚え切れないのだ。

 

福田康夫首相が、小幅な入れ替えで新内閣を立ち上げ、支持率も50%以上をクリアして、上々の滑り出しだ。政界が、ひとまず落ち着きを取り戻したのは、いいことだ。こちらも、つられて余裕がでてきた。そんなわけで、きのうの新聞に載った福田内閣の顔ぶれを、いまあらためて眺めている。

 

まず年齢をみてみた。閣僚は、福田首相以下18人だが、年代べつでは、70代が4人、60代が3人、50代は11人となる。40代はゼロだが、福田内閣は思ったより若いのに気づいた。こういう高齢化社会になると、50代というのは、ほんとうの働き盛りといってよい。なにしろ血気盛んな55歳以下が6人もいるのだ(石破防衛相50歳、岸田沖縄・北方担当相50歳、大田経済財政担当相53歳、上川少子化担当相54歳、渡辺金融行政改革担当相55歳、増田総務相55歳)。

 

昔の職業をみると、これまでになく多彩である。福田首相は政治家の跡取りによくある腰掛けサラリーマンではなく、本格的な会社員(丸善石油)だったし、銀行員が2人もいる(石破防衛相は元三井銀行、岸田沖縄・北方担当相は元長銀行員)。政権内に弁護士2人というのは、世界的にみれば、すくないほうか(高村外相、冬柴国土相)。お医者さんもいれば(鴨下環境相)、元産経新聞記者も(額賀財務相)。出身校をみてみた。

 

早大5人(福田首相、額賀財務相、渡海文科相、岸田沖縄・北方担当相、渡辺金融行政改革担当相)

東大5人(増田総務相、鳩山法相、舛添厚労相、若林農水相、町村官房長官)

慶大2人(甘利経産相、石破防衛相)

中大1人(高村外相)

関大1人(冬柴国土相)

日大1人(鴨下環境相)

九大1人(泉国家公安委員長)

一橋大1人(大田経済財政担当相)

ハーバード1人(上川少子化担当相)

 

福田首相以下の皆さんが、いつまで閣内にとどまるか。また、このうちの何人が、世間に名前を印象づけるか。現時点では、それは神のみぞ知ること。不祥事ではなく、実績で自分の名前を大きくしてもらいたいと願っている。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

9月27日、ススキ・オギの穂なびく(小山田緑地)、ヒガンバナ見頃(旧芝離宮)。

9月28日、コナラ紅葉・どんぐり落果(光が丘・長沼・平山城址)。

9月29日、ジュウガツザクラ開花(小山田緑地)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その4

大殿は、伝統的な寺院建築様式ですが、そこには現代建築の粋を結集しています。



いち早く福田康夫首相誕生の流れをつくったのは、古賀誠氏であった。勝利へむけた戦いで先陣をきったのだから、論功行賞(ろんこうこうしょう)の一番手であるのは、たしかだ。福田陣営からも、「幹事長は古賀さんしかいない」という声が出ていたし、ご本人も、まずまちがいなく幹事長だと確信していたはず。

 

ところが、福田新総裁からいわれたのは、意外や総務会長。このとき、古賀氏が、むっとしたのは、容易に想像がつく。サラリーマン社会なら、内心では、むっとしても、顔にはださずに、「はい、承知しました」と、引き下がる。いや、サラリーマンにかぎらず、国会議員でも、人事権者の決定には従うのが、ふつうであろう。しかし、古賀氏は、自分にかんする人事案を、自分でこわしただけでなく、みずから自分の役職を進言するという大胆な行動にでた。サラリーマン社会でも、そういう例は皆無ではないかもしれないが、まだ実例を耳にしたことはない。

 

自民党の3役の序列は、幹事長、総務会長、政調会長の順。与党の3役は、権力の中枢に位置する。総務会長は、軽々しいポストではない。しかし、古賀氏にすれば、「幹事長をやったオレが、なんで伊吹文明くんの下で、総務会長なんだ」という気持ちだ。実際、いまの総務会長はお飾りのような存在で、あまり実権がないのも事実。とはいっても、いくら古賀氏があつかましくても、「わたしを幹事長に」とは、いえない。

 

そこは、めざとい古賀氏だ。総務会長より低いポストで、しかも総務会長より権限のあるポストに狙いをさだめた。そのポストというのは、選挙責任者。やはり軍師といわれるだけあって、目のつけどころがちがう。たしかに世の中には、肩書きと実権が一致しない例はいくらでもあるが、古賀氏は、名より実をとって、選対委員長になった。

 

驚いたことに、古賀氏のために選対委員長は、総裁直属で党4役に格上げされた。公認権とカネをがっちりとにぎっただけでなく、総裁直属だから、幹事長に相談しなくとも、まかり通る権利まで得たのだ。そこまで権限をレベルアップしての4役入り。あきれるほどに、あざやかで、機敏な判断ではないか。
 

人事の組み替えは、影響が大きいし、だれかが、そのあおりをうける。古賀氏から、「やだよ」と意思表示されたとき、福田総裁が、むっとしたかどうかは、わからない。当初の案で、説得したかどうかも、わからない。わかっているのは、むっとしたのは、選挙責任者になるはずの二階俊博氏。総務会長に再任されて嬉しいだろうと世間では思っているのに、テレビに映る二階氏は、ずっと仏頂面(ぶっちょうづら)であった。いずれにしても、古賀氏の異議申し立ては、ゴネ得という印象を世間に与えた。そのうち巷では、「ゴネる」を「古賀(コガ)る」というふうに表現するにちがいない。

 

<きょう・あす・あさっての見頃の草花>

 

9月26日、大安。秋のバラ見頃(秋留台・代々木)。

9月27日、ススキ・オギの穂なびく(小山田緑地)、ヒガンバナ見頃(旧芝離宮)。

9月28日、コナラ紅葉・どんぐり落果(光が丘・長沼・平山城址)。

 

〔フォトタイム〕

 

増上寺その3

増上寺の大殿(だいでん)で、昭和49(1974)年の再建です。増上寺の創建は、明徳4(1393)年ですから、614年の歴史があります。当初は、いまの国会議事堂のちかくにありましたが、徳川家康の江戸入り後に、現在の芝に移りました。



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