2006年12月

12月というのは、お酒をのむ機会が多い。ビールで始まって、日本酒になり、焼酎のお湯割りからワインとつづき、二次会ではウイスキーの水割り。こういうちゃんぽんは翌朝、テキメンにこたえる。せめて2種類くらいにとどめておけばと後悔するのだが、宴会が盛り上ってくるとすっかり忘れて、すすめられるままにのんでしまうのだ。

 

若いころは、ウイスキーが多かった。学生時代はもっぱらトリスか角で、丸みを帯びた黒いボトルのダルマはよほどのことがないかぎり、お目にかかれなかった。会社へ入って海外へ行く機会がまわってきたころの思い出もウイスキー。空港の免税店には舶来の洋酒がズラリと並んでいて、猫も杓子もジョニ黒などを買っていた。20代の後半、だれからもらったか忘れたが、シーバスリーガルが手に入った。天にものぼる心地であった。歳月が流れ、気がついたら居酒屋でウイスキーをのんでいる人を見かけなくなった。ダルマの存在感もだんだん薄くなっていった。ダルマとは、いうまでもないが、サントリーオールドウイスキーの愛称である。

 

そのダルマが、ここにきて元気を取りもどしたという。うれしい話ではないか。フジサンケイ ビジネスアイ(1218日付)によれば、サントリーがことし3月にオールドを全面リニューアルして発売した「ザ・サントリーオールドウイスキー」が11月までに前年同期比10%増の伸びが続いているという。「ザ」と定冠詞をつけたのは、印象を強めるためとか。

 

記事を読んで初めて知ったのだが、ダルマの市場は昭和55年(1980年)の1240万ケース(1ケース12本入り)をピークに、平成17年(2005年)には50万ケースまで激減していたという。ダルマの復活には、団塊派のウイスキー回帰が貢献しているようだ。来年からは団塊世代の大量退職が始める。団塊を制したところが、来年の勝ち組になるのはまちがいない。

 

〔フォトタイム〕

 

東京駅その1

日本の顔のひとつといってよい、赤レンガの東京駅。その本格的な工事は、明治41年(1908年)に始められました。工事に6年もかけ、のべにして64万人の人手を要したそうです。一度は取り壊し寸前のところまでいきましたが、世論の後押しで保存が決まり、現在、修復工事が進められています。



 

 

80年前のきょう、大正天皇が崩御された。あまりにも存在感の大きい明治天皇と昭和天皇の間にはさまれた大正天皇は、どうしても影が薄く、そのお人柄もあまり知られていなかった。帝国議会の開院式で勅書を巻いて議場を見下ろされたというエピソードだけが広まって、世間の大正天皇像は偏ったものになっていた。

 

わたしは昔、ある書籍で大正天皇の書を拝見し、その雄渾な筆遣いに驚いて以来、世間に流布された大正天皇像に疑問を抱いてきた。その書を明治期の最高峰と評価する人もいるという。4人のお子様(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも英明であり、それが大正天皇を考えるとき、いつも頭にあった。そしてのちに、大正天皇が漢詩を1367首もお詠みになられていたことを知った。歴代天皇のなかで群を抜いて多く、それぞれの漢詩が素晴らしい。

 

ご幼少のときから病気がちで、天皇としての職責を十分に果たされなかったのは事実だが、文人としての才能に恵まれ、家庭を大切にされ、女官制を廃止された。近年、ようやく大正天皇を見直す研究家があらわれ、著作や論文もでている。ご長男として昭和天皇も、さぞやお喜びになっているにちがいない。

 

≪お知らせ=1225日夜から1月2日まで日本を離れます。この間のエントリーは用意しておりますが、コメントへの返事は失礼することになりますので、ご了解下さい。なぜか用意したエントリーが事前にランキングに出ることがあります。申し訳ありません≫

 

<きょう・あす・あさって>

 

大正15年(1926年)1225、大正天皇、崩御。摂政裕仁親王、践祚(せんそ)し、昭和と改元。昭和元年もまた80周年となる。

1991年(平成3年)1225、ゴルバチョフ・ソ連大統領辞任。

 

〔フォトタイム〕

 

皇居周辺その10

皇居を訪れる外国人観光客は、この松の木に感嘆するはずです。こういう素晴らしいところが都心にある日本は、やはり美しい国だと思います。



きのうにつづいて、重村智計(しげむら・としみつ)著『外交敗北――日朝首脳会談と日米同盟の真実』(講談社)をもう一度とりあげてみたい。本のなかに、こういう一節がある。本当の話ならたいへんなことだ。

 

<「金正日総書記とインタビューできます」とのおためごかしに誘われ、マスコミのキャスターや社長、幹部らが平壌を訪問した。中には、定期的に巨額の現金を送金したり手渡したメディアもあったのを、日本の警察は把握している>

 

<そうした情報の1つに、次のようなものがある。早くから北朝鮮への送金を扱っていた日本の銀行に、「大聖ビデオ・リサーチ」という企業名義の口座があった。これを北朝鮮の工作機関「統一戦線部」の口座と、警察は確認した。この口座に、あるマスコミが毎年数百万円から1千万円単位の資金を振り込んでいた事実が、確認されている>

 

大手メディアのなかには、金正日インタビューという特ダネ、あるいは平壌に支局を開設したいために、北朝鮮にさまざまな形でアプローチしているところがある。そういう動き自体はいっこうに構わないが、そのために巨額の金が使われているとすれば、これは問題視せざるを得ない。それにしても、重村氏が指摘した、あるマスコミとは、どこなのか。ちなみに金正日インタビューも、平壌支局開設もまだどこの社も実現していない(「赤旗」は昔、開設していたこともあったが)。

 

<きょう・あす・あさって>

 

大正15年(1926年)1225日、大正天皇、崩御。摂政裕仁親王、践祚(せんそ)し、昭和と改元。大正天皇崩御80周年、昭和元年もまた80周年。

1991年(平成3年)1225日、ゴルバチョフ・ソ連大統領辞任。

 

〔フォトタイム〕

 

皇居周辺その9

皇居前広場でも、いろいろな歴史が繰り広げられてきました。



 

出版とほぼ同時に買っておきながら、いまだに読んでいない本が何冊もある。積んでおくだけでは、お金の浪費というもの。なんとか1冊1冊、読破していきたいのだが、このごろは読書のペースは、がた落ちだ。きのうからは、ようやく重村智計(しげむら・としみつ)著『外交敗北――日朝首脳会談と日米同盟の真実』(講談社)を通勤電車で読んでいる。テレビでお馴染みの重村氏は、元毎日新聞ソウル特派員で、現在は早稲田大学国際教養学部教授である。

 

この本のなかに、「金正日総書記と無料で会見した外国人はいない」というくだりがある。なるほど。そういえば、2000年6月、韓国の金大中大統領は平壌へ飛び、金正日と歴史的な南北首脳会談を実現してノーベル平和賞を受賞したが、その後、北朝鮮に5億ドルの供与をおこなっていたことがわかった。日本からは何度も訪朝団が訪れている。一体、どのくらいのお金を持参していたのであろう。

 

では、金日成の場合はどうだったのか。金日成には、日本の一部のメディアが会見している。やはり手ぶらではなかったと思う。しこたまお金をとられて、そのうえで北の提灯記事を書いていたのだから、日本のメディア人はおめでたい。

 

<きょう・あす・あさって>

 

大正15年(1926年)1225、大正天皇、崩御。摂政裕仁親王、践祚(せんそ)し、昭和と改元。大正天皇崩御80周年、昭和元年もまた80周年。

昭和31年(1956年)1223、石橋湛山、首相に就任。あれから50年。

昭和51年(1976年)12月23日、福田赳夫、首相に就任。あれから30年。

1991年(平成3年)1225、ゴルバチョフ・ソ連大統領辞任。

 

〔フォトタイム〕

 

皇居周辺その8

桜田門をくぐりぬければ、皇居前広場です。



若い世代がもっと結婚するような環境づくりに妙案はありませんか、と呼びかけたところ、いくつかの提案をいただきました。ありがとうございました。コメントを拝見しながら、ふと思い出したのですが、昔は、世話好きな人がいました。仲人さんですね。いま、仲人ということば自体が聞かれなくなりました。結婚式で、仲人の姿をみることもマレになりました。

 

昔は、交通やメディアもあまり発達していなかったので、仲人が必要だったのでしょう。仲人口というふうに、わるい意味で使われることもありますけれど、ああいう人たちのおかげで、たくさんの良縁が誕生したのでした。わたくしたちが今日ただいま、こうしてこの世に存在するのも、仲人さんたちの献身的な縁結びのおかげです。

 

見合いと恋愛では、離婚率がちがって、見合いのほうが低いといわれています。ブラジルに渡った花嫁の多くは、写真による見合いで決心したのです。それでもほとんどの夫婦が生涯連れ添ってきた。ここに結婚の不思議さ、魅力があるように思えます。

 

結婚というのは、完成されたカップルの出会いではなく、未完成のカップルの出会いであり、そこからふたりで実りある人生を創造していく。そこに結婚の醍醐味があると思います。現代の若者たちは、完成された環境に慣れているので、未完の環境に放り込まれることに、うっとうしさを感じているのでしょうか。

 

<きょう・あす・あさって>

 

昭和31年(1956年)1223、石橋湛山、首相に就任。あれから50年。

昭和51年(1976年)12月23日、福田赳夫、首相に就任。あれから30年。

 

〔フォトタイム〕

 

皇居周辺その7

「桜田門の変」以外にも、この御門はさまざまな歴史を見てきたはずです。



 

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