2006年08月

石原慎太郎東京都知事は、色紙などを書くのを好まない。以前、そんなことをつゆ知らずに、あつかましくもお願いしたことがある。そのときは、とても上機嫌で(だから、頼んでみたのだが)、あ、いいですよ、と、すぐに机にむかって筆を手にした。うわさに聞いていた通り、左手に筆をもって、さらさらとしたためた。けさの産経新聞スポーツ面に五輪候補地に決定後、契約締結の署名をする石原知事と、JOCの竹田恒和会長の写真が掲載されている。万年筆を左手にもった石原さんをみて、昔のことを思い出した。 


石原さんは色紙に、「人生は情念を演じる劇場である」と書いた。広辞苑によれば、情念とは、心に湧く感情や心に起こる思念という。福岡市と争った国内候補地えらびで、石原さんの情念は一段ともえあがったにちがいない。新聞記事でしかその動きは知らないが、とにかく、東京誘致にむけて奔走していた石原さんからそういう印象をうけた。 


けさの産経新聞によると、プレゼンテーションの場で、福岡側の姜尚中東大教授が、「金持ちの、金持ちによる、金持ちのためのオリンピックで勝てるのか」と述べたのに対して、石原知事は、「努力して財政を再建したが、それをもって金持ちなのか」と反論したとか。ここにも石原さんの情念を感じる。 


案の定、朝日新聞は、東京五輪に不快感を隠そうともしない。「天声人語」は、「都は『アジアで初めてとなる2回目の五輪』を掲げるが、どれほどの意味があるのか。もし五輪を新しい改造のきっかけにするなら、前の五輪の功罪を見つめることが肝要だ」という。「社説」のほうも、まったく同じように「東京は開催プランの中で『アジアで初めてとなる2回目の開催を東京で』と、招致の意義を説く。これではとても世界に訴える力があるとは思えない」と述べている。そして、「『三国人』発言などで国内外で物議をかもし、アジア近隣諸国を刺激することの多い石原都知事も、国際都市・東京のイメージアップを真剣に考える必要があるだろう」と続けている。石原さんの東京には、花をもたせたくないというのが、朝日の本音であろう。 


42年前の東京オリンピックが懐かしい。ひたひたと走るマラソン金メダルのアベベ選手の姿をいまも鮮明に覚えている。しかし、多くの日本人は、東京五輪を知らないのだ。いま、中国政府は、北京オリンピックに全力をあげている。五輪を人民融合の一大イベントとし、中国共産党の正当性と正統性を強化したいという政治的な目標があるから真剣だ。さいわい、1回目はともかく2回目の東京五輪には、そういったぎらぎらした国家目標は希薄である。のびのびと、ほんとうに全国民がたのしめる、さわやかなオリンピックにすることが可能だと思う。東京五輪実現のため、石原さんのさらなる情念に期待したい。


 <きょう・あす・あさって> 


昭和31年(1956年)8月31 真崎甚三郎、死去。享年79歳。没後50年。 


〔フォトタイム〕


 護国寺その5

月光殿(左)と多宝塔です。月光殿は、もともと大津市の三井寺にありました。そこの塔頭日光院の客殿を、昭和3年(1928年)に移転しました。書院様式を伝える貴重な建物で、桃山時代の建造。国指定の重要文化財です。多宝塔は、昭和13年(1938年)の建立。石山寺の国宝、多宝塔の模写とか。大日如来像が安置されています。真言宗のご本尊というのは、大日如来像ですね。 


 

  

拉致被害者の「家族会」事務局長、増元照明さんや支援組織「救う会」副会長、西岡力さんらの訪中に期待していた。なんといっても中国は、北朝鮮に対して影響力があるからだ。北京では、中国の研究機関の意見交換の場などが予定されていたのだが、ご存じのように突然拒否されてしまった。ドタンバのキャンセル、ドタキャンだ。 


きのうの産経新聞は、西岡副会長の説明をこう伝えていた。中国側は28日午後、「マスコミ報道があったため政治的に微妙な問題について静かな環境での話し合いができなくなった」として、一方的にすべての意見交換会をキャンセルしてきたという。中国側出席者の所属機関などが報道されたためとか。また、記事によれば、日本大使館ルートで要請していた中国政府担当者との面会も断られたという。これが、今回の訪中のいちばんの狙いだったはず。せっかくの機会だったのに、残念だった。 


それにしても、キャンセルの理由が希薄だ。もし、中国からお客さんが来日して、似たような理由をつけて、アポイントを蹴ったら、どういうことになるのか。相手からだけでなく、日本国内からも、失礼なことをしたと、袋叩きにあうのがオチだ。中国側がキャンセルしたのは、北朝鮮への配慮である。核実験をめぐる微妙な時期なので、これは中国共産党の相当上位レベルの判断にちがいない。


 もともと中国のドタキャンは、あの国のお家芸、もとへ、悪癖のようなもの。これは、あらためたほうがいい。わたし自身も、数年前、当時の中国外相にインタビューできるところまでいき、ビザがとれ、航空券も手にし、ホテルもきばって北京飯店を予約したのだが、土壇場で足止めをくらった。理由は「外相の都合がわるくなった」というもの。外相だけでなく、ほかの人との会見もだめになって、結局、中国行きをあきらめた。 


昨年5月23日、愛知万博視察で日本を訪れていた中国の呉儀副首相は、小泉純一郎首相との会談をドタキャンして帰国した。「緊急の公務」といういい訳だったが、実際には小泉首相の靖国参拝発言に対する反発だった。呉副首相が来日する前日の5月16日、衆議院予算委員会で小泉首相は、A級戦犯に関して、「罪を憎んで人を憎まず」といったのは孔子だ、と答弁。これに北京のお歴々がカッとなったようだ。


呉儀副首相の非礼な行動は、中国国内でも批判があったという。こんなことを日常茶飯事のように繰り返していると、中国は国際政治の場で、笑いものになってしまう。そう心配する良識派が、中国にはいるということだ。孔子をうんだ国なのだから、もっと礼節を知ってほしいのだが、いまのような政治組織では、それはないものねだりなのか。


 <きょう・あす・あさって> 


昭和31年(1956年)8月31 真崎甚三郎、死去。享年79歳。没後50年。 


〔フォトタイム〕


 護国寺その4 
本堂を観音堂といいます。ご本尊は、如意輪観世音菩薩像。元禄10年(1697年)夏、半年あまりの工事で完成しました。国指定の重要文化財です。


  

 「はてな」という、変わった名前の会社がある。梅田望夫著『ウェブ進化論』(ちくま新書)を読んでいたら、さいごのほうで、この会社のことがでていて、初めて知った。同書によれば、「はてな人力検索」(どんな質問でも、ふつうの文章で問いかけると、会員のだれかが回答してくれるコミュニティ)、「はてなダイアリー」(ブログ)、「はてなアンテナ」(ウォッチしたいサイトの更新状況を定期的にチェック)、「はてなブックマーク」(ソーシャル・ブックマーク)といったサービスを手がける日本のネット・ベンチャーだそうである。 梅田氏は、昨年3月、「はてな」の非常勤取締役になった。20代ばかりの社員9人の「ちっぽけで、吹けば飛ぶような会社だった」とか。


だらだらと、書いてきたが、じつは、この会社にはまったく関心がなかった。しいていえば、創業者の経歴にちょっと興味をもったていど。近藤淳也氏といい、同書ではこう紹介されていた。 


「近藤は三重県生まれで京都大学理学部物理学科出身。大学時代はサイクリング部と自転車競技部に所属。大学院時代には休学して自転車選手として活躍した後、大学院をやめて自転車レースのカメラマンになった。その後、独学でインターネットやプログラミングを勉強。京都で(有)はてなを創業して1年前に東京に出てきたばかりであった」


 京大出の秀才が、自転車選手から自転車レースのカメラマンへ転身した。へえーと思った。とはいっても、本を読んだ当座の話で、その後、「はてな」も近藤氏も、雑誌「Works」8月・9月号(リクルートワークス研究所)が届くまでは、すっかり忘れていた。 


この雑誌に、「野中郁次郎の成功の本質――ハイ・パフォーマンスを生む現場を科学する」という連載がある。野中先生は一橋大学大学院の名誉教授で、知識創造理論の提唱者として知られるが、今号は「はてな」がとりあげられていた。社員数は21人になっていた。月間訪問者数は、のべ800万人とか。見出しがすごい。 


「日本のグーグル」と呼ばれるネット企業「はてな」は一見、へんな会社だが最も正しい会社だった! 


たしかに、へんな会社だ。記事によれば、会議は立ったままおこなうという。大部屋の真ん中にある高めのテーブルのまわりで会議をおこない、社員はテーマや議論の流れに応じて参加するか、席に戻るか、自分で決めてよい。要するに、出入り自由というわけだ。社員の座席も決まっていない。前日と同じ席に座ることは禁じられている。ロッカーから必要なものを持ち出し、好きな席で仕事をすると、記事にあった。


少人数の会社だから、こういうユニークなこともできるのだろう。 なにかと似ている。思い出した、遊牧社会である。われわれ農耕民族にとって、決まったところに自分の居場所があるというのは、なにごとにも代えがたい。それが、毎日、場所が代わるというのだから、随分落ち着かないと思うが、隣組も交代するので、たしかにだれともコミュニケーションできるメリットはある。「はてな」では、ほとんどの社内情報を社員全員が閲覧できるブログに書き込んでいる。情報の送り手が受け手を選ぶ、電子メールは使わないという。なるほど、なるほど。オープンな近藤遊牧流に感心した。 


<きょう・あす・あさって>


 昭和31年(1956年)8月31 真崎甚三郎、死去。享年79歳。没後50年。 


〔フォトタイム〕


 護国寺その3 
仁王門をくぐって境内に入ると、前方に中門がみえてきます。不老門といい、昭和13年(1938年)に建立されました。京都・鞍馬寺の門を基本に設計されています。額面の「不老」の文字は、徳川家達の筆によります。家達は徳川宗家の16代、ご3卿のひとつの田安家の出。昭和になっても、護国寺と徳川家の関係は切れていないようです。中門というのは、仁王門と本堂の間にあるからです。


  

けさの産経新聞で、ソウル支局の久保田るり子特派員が、「現時点で可能性は五分五分――韓国が北朝鮮による核実験準備に神経をとがらせている」と報じている。もし、金正日が核実験を強行したら、「朝鮮半島は未曾有の緊張を強いられ、韓国への打撃もミサイル発射のときとは比べようもないほど大きい」と久保田特派員。そのときは、日本もまた深刻な事態を迎えることになる。  


記事によれば、韓国政府は今月中旬から地震観測専門機関の韓国地質資源研究院に国防部所属の兵士6人を派遣、24時間の監視体制を敷いているという。いまごろになって、盧武鉉(ノムヒョン)政権はあわてているが、これほど脇の甘い大統領は、かつて韓国にいなかったのではないかと思う。おそらく北朝鮮は、当節の韓国など自在に操れるくらいの傲慢な気分になっているにちがいない。北の盧武鉉評というのは、御(ぎょ)しやすい大統領、すりよってくる大統領といったところかもしれない。いずれにしても、北の核実験情報に落ち着かない隣の大統領を尻目に、金正日の高笑いが聞こえてくるようだ。 


金正日は、国内のインフラ整備の資金は出し渋っても、南に対する工作費は、ケチっていないだろう。8月22日付の朝日新聞朝刊に、「韓国、北朝鮮スパイ拘束」という記事が載った。記事によれば、盧武鉉政権下で北朝鮮から直接、韓国へ送り込まれたスパイが摘発されたのは初めてという。親北ムードでいっぱいの南で捕まるなんて、まったくドジなヤツだ、と、北の工作員は、本国でいわれているにちがいない。 


記事によれば、北の工作員、ギョンハク容疑者(47)は、朝鮮労働党の工作機関の1つ「35号室」の所属。1996年3月から98年1月にかけて3回にわたって韓国に潜入。その間、「戦時に効率的に打撃を与えるための目標」として原子力発電所や空軍基地の写真を撮り、北朝鮮に戻っては報告していたという。逮捕されたとき、この工作員は3000ドルをもっていた。本国では、お目にかかれないような大金である。これで、ジャガイモが、どれだけ買えるのだろう。 


〔フォトタイム〕


 護国寺その2 
仁王門の正面両脇には、金剛力士像が安置されています。右側は阿形です(あぎょう)像、左側が吽形(うんぎょう)像です。さらに背面に二天像。があります。右側は増長天、左側が広目天。いずれも仏法を守る仏像ですね 


 

 


けさの産経新聞は、1面と29面にとても重要な記事を載せていた。心が晴れ晴れとしてくる、そんな大ニュースだった。ただし、出来事自体は、重苦しく、切ない話である。1面の見出しは、「渡嘉敷島 集団自決」、「『軍命令は創作』初証言」、「遺族ら援護へ赤松元大尉同意」、「元琉球政府の照屋昇雄さん」。29面の見出しは、「元大尉、自ら十字架背負った」、「照屋昇雄さん『真実はっきりさせようと思った』」。こういう見出しで報じられた記事は、掛け値なしに、産経新聞の存在感を際立たせたと思う。 


以下、記事を借用しながら、塗り替えられた歴史の真実を、このささやかなブログからも、ニュースの配達人のひとりという使命感をいだきながら発信したい。こういうときは、配達人はひとりでも多い方がよいのだ。ただ、当ブログをおとずれた産経新聞読者の皆様には、申し訳ないと思っている。同じ内容の繰り返しになって新鮮味のないエントリーになるが、ひとりでも多くの、この記事を読んでいない人々に伝えたいので、お許しをいただきたい。 


1面をみて、やったぞ、と思った。こういう記事を丹念に発掘していく記者がいるかぎり、産経新聞は不滅である。すでに、いわれている話ではないか。活字にもなっている。そういう声もあろうが、だからといって、この記事の価値を低めることにはならないのだ。 29面には、沖縄県渡嘉敷村に建つ、「集団自決跡地」の碑の写真が載せてある。沖縄には、那覇にすら行ったことがない。一度、現地でこの碑をみたい。そんな個人的なことはともかく、平成5年(1993年)に建てられた、この碑の裏側の谷間で、島民315人が命を絶ったという。写真をよくみると、右側に碑文を刻んだ石がべつにあるのがわかる。記事によれば、碑文には、「軍命令」とは、一切刻まれていないという。そこに、島民の精いっぱいの良識を感じたのは、わたしだけではあるまい。 


しかしながら、大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波書店)や一部の中学の教科書などには、集団自殺が軍の命令であったというふうに書かれているという。昭和45年(1970年)3月、集団自決慰霊祭に参列するため渡嘉敷島へ渡った赤松元大尉は、島で抗議集会がひらかれたため、出席できなかったとか。これに対して作家の曽野綾子さんは、著書『ある神話の背景』(文藝春秋)で、軍命令説に疑問を呈していた。そして、けさの産経新聞は、はじめて当時の琉球政府当局者の証言を実名で掲載したのである。証言者は82歳。ぎりぎりのところ、まさに瀬戸際で昭和史のひとこまが救われた、というのが、当方の率直な感想である。ナマの証言がないと信じてくれない、日本人が少なくないのだ。 


一体、渡嘉敷島の集団自決とは、どういう出来事だったのか。豊吉広英記者によれば、昭和20年(1945年)3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めたという。あらためて、心から自決された方々のご冥福をお祈りしたい。 


なぜ、この集団自決が軍の命令となったのか。それは、軍の命令となれば、戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象となるからだ。政府当局の解釈は、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたる。そして、戦闘参加者には、援護金が出ることになっている。 今回、貴重な証言をした照屋昇雄さんは、当時、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。まさに、住民の戦闘参加を認定する立場にいたのである。


渡嘉敷島の島民は、まずしかった。なんとか、援護金をとらせたかったが、厚生省(当時)の同意をえることはできなかった。軍の隊長の命令書があれば、なんとかなるという。そこで村長らが、赤松元大尉に懇願。赤松さんは重い十字架を背負うことに同意して、戦争が終わったあとにつくられた、偽造の命令書にサインしたのであった。 


記事によれば、赤松嘉次元大尉は、昭和19年(1944年)9月、海上挺進(ていしん)隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は、120キロ爆雷を積んだベニヤ製の特攻艇を使ったアメリカ艦船への体当たり攻撃だったという。米軍の渡嘉敷島への上陸前に、特攻艇は海に沈められ、赤松隊長は島に残った。生き残った赤松さんの心境は、複雑だったのではあるまいか。その後、島民と生活を共にする赤松さんが、命令書の作成に応じた気持ちは理解できる。赤松さんは、そうすることで島民が救われるなら、自分は犠牲になっても構わないと思ったにちがいない。部下をなくし、島を守れなかった隊長の贖罪意識を強く感じる。


 ところが、意に反して赤松さんは、批判の矢面に立たされることになった。「オマエはオニだ」ともいわれた。善意の行為がひっくりかえったのだから、暗澹たる気持ちになったと思う。余命3か月のとき、ついに赤松さんは、自分が命令したという部分を削除してほしいと頼んだ。しかし、願いは聞き入れられなかった。今回、実名で証言することになった照屋さんもまた、天国の赤松さんの無念を察して、ずっと前から、居たたまれない気持ちになっていた。しかし、援護金をもらっていた島民を思えば、ちゅうちょせざるをえない。照屋さんの気持ちもまた十分にわかる。いずれにしても、真実が語られた。まちがった記載のある教科書だけでも、きちんと訂正しなければならない。 


〔フォトタイム〕


 護国寺その1 
真言宗豊山(ぶざん)派大本山護国寺は、東京メトロ有楽町線の護国寺駅のすぐ目の前にあります(東京都文京区大塚5-40―1)。護国寺発行のパンフレットを参考にしながら概略を説明していきたいと思います。創建は、天和元年(1681年)。5代将軍、徳川綱吉が生母の桂昌院の発願により、上野国(群馬県)の僧、亮賢を招いて開山。地下鉄を降りて、すぐ目にはいるのが切り妻造りの表門。仁王門といいます。仁王門は文京区指定の有形文化財。区委員会が立てた看板に、窪田空穂(くぼた・うつぼ)の歌、「護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ」が紹介されていました。


  

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