2006年07月


けさの産経新聞の万引きの記事を読んで、笑ってしまいました。笑ったけれど、ちょっぴり哀歓も感じました。千葉版なので、読んでおられない方のほうが多いでしょうから、記事を紹介します。 


5月10日と15日、市川市内のゴルフショップで、ゴルフクラブが4本(あわせて約23万円相当)も盗まれました。まもなく窃盗の疑いで会社員(44歳)が、行徳署につかまりました。 


それだけの話ですが、ゴルフクラブの万引きというのに、興味をそそられました。万引きというのは、盗品をどこかに隠して持ち出すわけでしょう。あんな長いクラブを、どこに隠したのでしょう。クラブを万引きしようと思う者はいない、という油断が店のほうにもあったはず。 


やはり隠したところは、ズボンでした。いくらなんでも、ゴルフバッグをもって、ゴルフ店へ行くわけにもいかないですよね。被害者がいるのですから、笑っちゃいけないのですが、その姿を想像したら、吹き出したくなりました(ごめんなさい)。


 万引きの際、かれは、スポーツ用ジャケットの上下を着用していました。クラブをズボンに1本ずつ隠して、足をひきずるようにして、店の外へ出たわけです。狂言に棒しばりというのが、ありますね。あ、あれは、両手か。とにかく、両足は、ギブスをしたような状態ですから、動作はぎこちなくなります。 


ドロボーですから、一刻も早く、逃げたい。しかし、急げば、ヘンな歩き方がばれてしまう。そろり、そろり、そろり。たいへんな緊張感だと思います。 


かれは、同じ手口で、平成1511月から、なんとクラブを約400本も盗んでいたというのです。記事によれば、万引きしたクラブを中古ショップで換金し、約1100万円を得ていたそうです。 


サラリーマンにとっては、夢のような“副収入”。遊びも、どんどん派手になっていったでしょう。比例して万引きの回数もふえたにちがいありません。かれには、休日も仕事があったわけです。ハラハラドキドキの“副業”。かれは、つかまって、むしろ心のやすらぎを得たのではないでしょうか。


 <きょう・あす・あさって>


平成8年(1996年)727 若泉敬、死去。享年66歳。没後10年。

昭和51年(1976年)7月27日 東京地検、田中角栄を逮捕。あれから30年。


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その4  

 

旧朝香宮邸のみどころは、建物だけではありません。庭園がまた、すばらしい。これは南面の外観ですが、建物と庭園がみごとに調和していますね。左側の彫刻は、ロシアうまれのオッシブ・ザッキンの「住まい」という作品です。


   


「富田メモ」に登場する靖国神社第6代宮司、松平永芳氏(故人)の話をつづけてきた。なぜ、松平宮司は“A級戦犯”14柱の合祀を決断したか。きょうは、そのことにふれて、この項をおしまいにしたい。


 松平宮司の考えはこうだ。国際法上、昭和27年(1952年)4月27日までは戦闘状態にあった。その間におこなわれた東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦場で亡くなった方と同じである、と。 


昭和28年(1953年)、超党派で援護法が一部改正された。これで、いわゆる戦犯死亡者も一般の戦没者とまったく同じ扱いをうけることになった。小冊子で松平宮司は、こう述べている。 


「それまでの、いわゆる戦犯の遺族は、まったく惨めな思いをしていたんです。あまり知られていませんが、財産も凍結されていて、家を売って糧(かて)を得ることさえもできなかった。それを、終戦直後の国会には婦人議員が多かった関係もあり、彼女たちが先頭に立ち、超党派で改正されたわけです」


 「国際法的にも認められない東京裁判で戦犯とされ、処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀(まつ)らなければ、靖国神社は、僭越にもご祭神の人物評価をおこなって、祀ったり祀らなかったりするのか、となってしまいます」 


松平宮司の考えには、賛否両論と思う。その是非はおくとして、ひとついえるのは、松平宮司の戦犯、および遺族への思いの強さであろう。 


昭和54年(1979年)4月21日、春の例大祭に大平正芳首相が参拝した。クリスチャン宰相の参拝と抱き合わせで、“A級戦犯”合祀が大きく報道された。そのとき、事実を知った中国政府が、激怒したということは、おそらくなかったはずだ。


 <きょう・あす・あさって> 


平成8年(1996年)727 若泉敬、死去。享年66歳。没後10年。

昭和51年(1976年)7月27日 東京地検、田中角栄を逮捕。あれから30年。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その3  
 

東京都庭園美術館をおとずれたのは、6月初旬でした。まだツツジが咲いていました。設計は宮内省の内匠(たくみ)寮の建築家、権藤要吉が担当。主な部屋の内装は、フランス人デザイナーのアンリ・ラパンにゆだねられました。みどころは、やはりアール・デコ。ヨーロッパを席巻した、あたらしい装飾様式がとりいれられた、貴重な建物です。


  

「富田メモ」に登場する靖国神社第6代宮司、松平永芳氏(故人)が、“A級戦犯”合祀に踏み切った経緯をかんたんに振り返ってみたい。 


じつは、わたしはすでに昨年の『正論』9月号で、その経緯を書いている。参考にしたのは、靖国神社社務所が平成4年(1992年)に発行した小冊子『靖国神社をより良く知るために』であった。このなかに「誰が御霊(みたま)を汚したか」という刺激的なタイトルの聞き書きが収録されている。語り手は、松平元宮司。靖国問題を解くうえで重要な資料だ。それにふれた拙文を読んでいない方も多いと思うので、あえて、くりかえすことにした(以下、この聞き書きを「小冊子」とする)。


 小冊子によれば、松平氏は昭和53年(1978年)7月から平成4年(1992年)3月までの約14年間、宮司として靖国を取り仕切った。就任以来、松平氏は、断じて譲れないことが3点あると心に決めたという。


 一、日本の伝統の神道による祭式で御霊をなぐさめる。

二、神社のたたずまいを変えない。「靖国で会おう」「靖国の桜の木の下で再会しよう」と誓い合って戦場に赴(おもむ)いたのだから、これを変えるわけにはいかない。

三、社名を変えない。当たり前と思われるかもしれないが、「靖国廟にしろ」という意見もあったというのだ。


 小冊子によれば、松平氏は、宮司になる前から東京裁判史観に強い疑問をいだいていた。すべて日本がわるいというのでは、とてもわが国の精神復興はできないと考えていた。


 宮司になった松平氏は、総代会議事録を調べていて、数年前に、総代から「最終的にA級戦犯はどうするんだ」という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期は宮司預かりというのを知った。 


松平宮司は、就任して間もない昭和53年8月、合祀関係の担当者に、上奏簿はまだ間に合うか、と尋ねている。戦前は、合祀する際は、上奏して裁可をあおいでいた。その名残りから、戦後も上奏簿を皇居に届けていた。 


間に合うのか、と松平宮司がいったのは、秋季例大祭(1017日~20日)までに、手続きを終えることがきるかどうか、を気にしていたからである。秋の例大祭というのは、年に一度の合祀祭でもあった。


 担当者は、「大丈夫です」と答えた。そこで松平宮司は、1766柱を合祀する際、そのなかに“A級戦犯”14柱をいれたのである。これは公表されなかった(あすに、つづく)。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その2  

 

ご存じのように東京都庭園美術館は、旧朝香宮邸ですね。戦後、吉田茂元首相が公邸として使ったり、迎賓館になったりしました。東京都歴史文化財団と東京都庭園美術館が編集・発行した小冊子「旧朝香宮邸のアール・デコ」によれば、もともと、このあたり一帯は、白金御料地といわれ、敷地面積は、3万5000平方㍍(約1万坪)もあったそうです。その一角に昭和8年(1933年)、朝香宮邸が建てられました。平成5年(1993年)、都の有形文化財に指定されました。


  


「富田メモ」に登場する靖国神社第6代宮司、松平永芳氏(故人)の話をつづけたい。


 暁星をでた松平氏は、昭和8年(1933年)、海軍機関学校に入校し、海軍軍人の道を歩みはじめた。同13年(1938年)、少尉に任官。艦隊などに勤務し、終戦のときは、第11根拠地隊参謀(海軍少佐)としてサイゴンにいた。同28年(1953年)、陸上自衛隊に入隊。同43年(1968年)、1等陸佐で定年退官。 


旧藩の人々は、昔の殿様の末裔を忘れていなかった。自由な身となった松平氏を福井市立郷土歴史博物館長として迎えいれた。昭和53年(1978年)、靖国第5代宮司、筑波藤麿氏死去。後任宮司として、当時63歳の松平館長に白羽の矢が立った。


この人事にとくに熱心だったのは、元最高裁長官の石田和外氏で、松平館長を直接口説いたのも、石田元長官であったという。


 靖国は別格官幣社にして、勅祭社(ちょくさいしゃ)。勅祭社というのは、皇室から勅使が差遣わされて、幣帛(へいはく。神への捧げもの)をたてまつられる神社のこと。そんな社格の高いところの宮司に、神職の経験のない人が、どうしてなれたのだろうか。そう思った人もおられよう。 


それは靖国が、神社本庁に属していないからである。つまり靖国は、独立王国のような存在で、独自の規則と社憲によって運営されている。そこには、「宮司は、神職でなければならない」という決まりはない。


 しろうとが、そうかんたんに神主になれるのか。松平氏は、のちに、「祭式などは、所作が決まっていて、習えば苦にならなかった」と語っている。はたで心配することもないようだ( きょうでおしまいにするつもりであったが、あす、もう一回、つづけることにする)。


 <きょう・あす・あさって> 


7月23 土用の丑。

明治39年(1906年)7月23 児玉源太郎、死去。享年55歳。没後100年。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その1  


東京都庭園美術館(港区白金台5-21―9)は、閑静な環境にあります。JR山手線の目黒駅東口から徒歩7分。東京メトロ南北線、都営三田線の白金台1番出口から徒歩5分です。庭園美術館は、昭和58年(1983年)にオープンしました。同じ敷地内に、都の迎賓館もあります。毎月第2、第4水曜(祝日の場合は翌日)が休館日です。


   


「富田メモ」に登場する靖国神社の第6代宮司、松平永芳氏は平成17(2005)7月10日、埼玉県川越市の病院で亡くなった。享年90歳。松平宮司は、就任して3か月で“A級戦犯”14人の合祀を決断している。


 松平元宮司には、お会いしたことはなかった。一度、取材したいと思い、ご自宅に電話したことがあるが、入院中で実現できなかった。 


松平元宮司の家柄について若干ふれてみたい。永芳氏は、大正4年(1915)、松平慶民(よしたみ)の長男として東京でうまれた。宮内大臣をつとめた慶民は、昭和天皇の「独白録」をまとめた側近5人組のひとりとして知られる。 


慶民の父親は、政事総裁職として幕政の大改革を断行した松平慶永(よしなが)。つまり元宮司は、松平春嶽(しゅんがく)の孫にあたるのである(春嶽は慶永の雅号)。


 春嶽は、徳川将軍家の跡継ぎ予備軍とでもいうべき、ご3卿のひとつ、田安家にうまれた(あとの2卿は清水家、一橋家)。11歳で越前福井藩主となり、結婚して4男8女をもうけた。長男と次男は早世し、3男の慶民が嫡男として成長した。 


しかし、慶民が嫡男として松平家を継いだわけではなかった。春嶽が安政の大獄で幽閉されたとき、家督は幕府の命でわずか1万石の支藩、越後糸魚川藩の松平茂昭が継承。その後、春嶽が名誉を回復して、嫡男の慶民がうまれても本家として返り咲くことはなかった。爵位にも差があって、本家の茂昭は侯爵だったが、慶民は子爵。このように松平家は、時代に翻弄(ほんろう)されて きた時期もあったのである。


慶民は息子の永芳少年を学習院ではなく、九段の靖国のそばにあるカトリック系の暁星に学ばせている。永芳少年が後年、どうして靖国の宮司となり、“A級戦犯”の合祀を決断するに至ったかについては、あすにしたい。 


<きょう・あす・あさって> 


7月23 土用の丑。

明治39年(1906年)7月23 児玉源太郎、死去。享年55歳。没後100年。 


〔フォトタイム〕


 小石川後楽園その7  


小石川後楽園、いかがでしたか。蓮の池で、ひとまず、おしまいとします。うしろにみえるのは、東京ドームです。蓮のみどころは夏。なお、紅葉は11月中旬から下旬、梅は2月上旬から下旬。そして3月下旬から4月上旬の桜をお忘れなく。いつか、また、ちがう季節の小石川後楽園を紹介したいですね。


 

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