2006年07月


きょうの産経新聞で、作家の曽野綾子さんが、「富田メモ」にふれている(コラム「透明な歳月の光」213回)。曽野さんのいう通りだと思った。このブログに立ち寄った方のなかには、産経新聞の読者でない人もおられようから、一部を紹介したい。 


「天皇陛下と一作家の立場を比べるような無礼を働く気はないのだが、この問題では、発言者の側からの視点がほとんどないのが気がかりである。私は談話を取られるとき、かなり防御的になっている。私の喋(しゃべ)り方がへたなのが最大の理由だが、人間の言葉のニュアンスを正確に書き取る人もまた少ないからだ。そもそも人は他人の発言を過不足なく文字によって伝達はできないのである」 


曽野さんは、取材を申し込まれたとき、うけるかどうかは、取材者が、自分の発言を原稿にした段階でみせてくれるかどうかできめているという。わたしもメディア側のはしくれだから、大きな声ではいえないけれど、曽野さんの方法は賢明だと思う。


 昔、ある事件についてのコメントを「週刊朝日」の名編集長として鳴らした、扇谷正造さん(評論家)に電話で求めたことがあった。扇谷さんは、用件を聞き終えたあと、「キミは、ぼくのコメントを何行くらい使うつもり?」と、聞いた。そんなことをいわれたのは、はじめてなので、面食らったが、とっさに「30行ほどです」といった。「で、1行、何字?」。「はい、14字です」。「わかった。ちょっと、待ってね」と、しばらく待たせたあと、指定の行数どおりの分量のコメントを話しはじめた。ベテラン記者だった扇谷さんは、若い取材記者の聞き取り能力を知っていたので、もっとも安全な方法をとったのだろう。 


もっと、上手(うわて)は、評論家の山本夏彦さんだった。なにか事件があってコメントを求めると、山本さんは、その事件について根掘り葉掘りたずねた。「で、あなたは、どう思うの?」と、逆に、こちらにコメントを求めてきた。それで、「う~ん、この問題は、ちょっと、ぼくにはわからないな。ごめんね」で、おしまい。若造記者の取材など、怖くて、とても、うけられないが、せっかく電話してきた、かれらを門前払いはしない。取材を申し込まれても、すぐに電話をきらなかった、シャイで、いくぶん老獪な、あの頃の山本さんが、懐かしい。 


曽野さんは、コラムのさいごをこう結んでいる。 


「『富田メモ』はほんとうかもしれない。そうでないかもしれない。ただはっきりしていることは、ほんとうでも昭和天皇はご生前にそのことをご自分で発表なさらなかった、ということだ。他人が本人を差し置いてものを言うのはいつでも迷惑な話なのである」


  同感である。「富田メモ」を、ひとり歩きさせてはならない。曽野さんのコラムは、けさの朝日新聞の若宮啓文論説主幹のコラム「風考計」をみたあとに読んだので、よけい、そう思った。若宮さんは、「富田メモ」が、「天皇が靖国参拝をやめた動機をはっきり裏付けた」と断定していた。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その9  


美術館となった旧朝香宮邸の園内の彫刻ガイドのさいごは、アメリカ人のウォルター・ロータンの作品「キリン」です。素材はブロンズで、1993年の制作だそうです。


   


いやあ、日曜日のあさだというのに、驚きました。近くをぶらぶら歩いたあと、自宅に戻ってメロンをたべていました。そのとき、民放テレビ局の番組で例の「富田メモ」は、カネで新聞社に売られたのではないかといわれている、と物騒な発言が、ある政治評論家の口から飛び出したのです。まさか、そんなことはないでしょうが、ホント、心臓がドキンとしました。でも、メモを入手したのが、なんで、あの新聞社の、あの記者なのかなあ、という気はしていました。


 真偽のほどは、わかりませんが、ひとついえることは、昭和天皇の周辺にいた人(および遺族)は、これは天皇のご発言だと称して、みだりに外部へだしてはいけない、ということですね。非常識で、軽率なことをするから、おカネをもらったなんて勘ぐられてしまうのです。


 昭和63年(1988年)4月25日、昭和天皇は、皇居でさいごの宮内記者会との会見に臨まれました。「日本が、戦争にすすんでしまった原因は何だったとお考えですか」という質問に、昭和天皇は、「そのことは、人物の批判とか、そういうものが加わりますから、いま、ここで述べることは避けたい、と思います」と、ことばを選んで慎重にお答えになっています。


ご自身のことばのひとつ、ひとつが後世にわたって、重い意味をもつことを承知されているからこそ、こういう発言になるのです。そういう昭和天皇のお気持ちをまったく察することのできない人間に、非公式メモなるものが遺されたわけです。発言メモが、ほんとうか、どうか、その検証というのは、至難のワザなのです。類似したことが、続発しないことを願っています。


 〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その8  

 

この作品は、エドゥアール・サンドの「座る豹」。素材はブロンズです。東京都庭園美術館によれば、サンドはスイスうまれで、アール・デコの時代の代表的な彫刻家だそうです。とくに1920年代に動物彫刻で高い評価を得たとか。10年ほど前、ここで「エドゥアール・サンド彫刻展」がひらかれました。それを記念してサンド財団の協力で、スイス・ローザンヌのサンド邸の庭に置かれている「座る豹」を原型から鋳造して、設置されたものだそうです。こういう背景がわかると、作品をみる眼もちがってきますね。




  


いま、朝食を終えた食卓で、小学館から月に2回発行される、雑誌『サライ』8月3日号をひらいている。新聞の広告で、銀座の特集を組んでいるというのを知って、書店で買ってきた。 


目次をみると、なるほど、銀座大特集のオンパレードだ。しかし、最初にみたのは、冒頭のインタビュー欄。作詞家の岩谷時子さんが、登場している。まさか、ここで岩谷さんの近況を知るとは、思いもよらなかった。雑誌というのは、こういうハプニングがあるから楽しい。


 岩谷さんに、お会いしたことはないが、昔、電話で随筆をお願いしたことがある。そのとき、いただいた手紙を、いまも大切に保管している。「作詞を続けて半世紀以上。『お嫁においで』『恋のバカンス』など、世代を超えて歌い継がれる数々の名歌を世に送り出してきた」というキャプションのついた90歳の岩谷さんの写真は、とても若々しい。


 現在は、日比谷の帝国ホテルに住んでいる。そういえば、オペラ歌手の藤原義江も帝国ホテル暮らしだった。岩谷さんのご自宅は大田区にあり、3年前までは、週末だけ帝国ホテルに泊まって集中的に仕事をしていたが、なにかと便利なので、いまはすっかりホテル生活者。自宅には、めったに帰らないとか。 


「世に送った作品は1300曲以上。気力と好奇心は、今も健在」と前文にある。昨年春、岩谷さんは、階段で転び、大怪我をした。医師たちは、自力で歩くのはむつかしいだろう、退院しても車椅子が必要になるだろう、と思っていたらしい。岩谷さんは、心のなかで「絶対に歩けるようになる」と。「やっぱり気力が大切ですね。悩んでも、なにも解決できないと思ったら、頭を切り替えて、悩むというエネルギーを前向きな方向に使うことです」と語る岩谷さんは、いまなお現役の作詞家として創作活動をつづけているのだ。けさは、岩谷さんから、元気のもとをもらったような気分で清々しい。


 岩谷さんは、越路吹雪のマネージャーだった。「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)と、岩谷さんは、インタビューで語っていた。 


ひとり娘の岩谷さんが、お嫁に行ったら、寂しくなると、親は結婚をすすめなかった。恋や愛の歌も、体験からではなく、想像の産物。 


「その点、越路さんは、恋多き女で、彼女が昭和34年に結婚するまで、わたしがずっと恋の使者でした。恋が終わるときも、相手の方に引導を渡しに行かされる。最初はお互い好きで心を寄せながら、別れのときがくる。すると、相手につらい思いをさせたと越路さんは悩んで、わたしに行ってくれってことになるんです。でも、相手の男性はみな、“時子さんも大変やなあ”と気遣ってくれまして」


 帝国ホテルのとなりは日生劇場。昔、ここで越路吹雪の歌を聴いた。あのボリュームあふれる、歌声も懐かしい。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その7  


旧朝香宮邸も、現在は美術館。庭園には、いくつかの彫刻がおかれています。これは、安田侃(かん)作の「風」。素材は白大理石です。東京都庭園美術館によれば、安田は、大理石の産地として知られるイタリアのトスカーナ地方のピエトロサンタを拠点に大理石とブロンズによる彫刻の創作活動を展開しているとか。この作品は、5年前にここで開催された「安田侃 野外彫刻展」を記念して設置されました。 


  


 

あさ、顔を洗って、テレビのスイッチをいれると、いきなり、サッカー場の乱闘場面がでてきた。あ、これは、なんだ。オーストラリアのアデレードでひらかれている、サッカー女子アジア杯。暴(あば)れているのは、北朝鮮の女子選手というじゃないか。しかも相手は、中国の女子チーム。これは、タイヘンだ。


 スポーツを、政治にからめてみちゃいけないけれど、思わず、両国トップの顔を、乱闘シーンにかさねてしまった。いま、中国と北朝鮮の関係がよくない。あきらかに金正日総書記は、胡錦濤主席にウラミツラミの感情をもっている。北朝鮮女子選手の、憎悪のこもった表情に、それがだぶってみえる。


 あ、スタンドから、なにか投げつけられたようだ。ビンではないか。危ない。おっと、それを拾った北の女子選手が、スタンドに投げ返した。


 だんだん、事情がわかってきた。2007年女子W杯予選をかねた女子アジア杯。A組2位の中国と、B組1位の北朝鮮の対戦。中国は、開催国なので、予選で負けがこんでも、無条件で出場できる。だから、中国チームには、余裕がある。 先取点をあげたのは、白のユニフォームの中国チーム。赤の北朝鮮チームは、必死である。そこにチャンスがまわってきて、ゴールをきめた。歓喜する北の選手。ところが、審判の判定は「オフサイド」。結局、試合は1-0で中国の勝ち。 


事件は、その直後に起きた。北のゴールキーパーが、走ってきて、審判にとびかかろうとしたのだ。警備の男性陣にかこまれて審判団が逃げ出した。これはもう、スポーツといえるものではない。


 日本のなでしこチームのつぎの対戦相手は、北朝鮮チーム。北のチームは、出場できるのかどうか。これを書いている、あさの段階ではわからない。


それにしても、北朝鮮のゴールキーパーは、血の気が多すぎた。自分の血の気をキープできないようでは、ナショナルチームのかなめにはなりえない。裏返してみれば、彼女にはそこまで切羽詰ったものがあったということか。


 もし、北朝鮮チームが出場停止になったら、事件をひきおこしたゴールキーパーの立場はどうなるのか。英雄として遇されるのか、それとも思慮が足りないと批判されるのか。彼女の運命が気になる。いずれにしても、後味のよくない事件であった。 


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その6  

 

アール・デコの洋館に、芝生。旧朝香宮邸はどこをみても洋風のイメージが強いのですが、奥のほうに和風庭園があります。池泉本位の回遊式庭園です。灯籠、つくばい、飛び石などがさりげなく配置されています。写真には写っていませんけれど、つくばいの石は、明治天皇より拝領した「くらま石」だそうです。


  

けさの産経新聞は、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果を伝えている。記事によれば、業務終了時のかけ声を尋ねたところ、目上に「お疲れさま」を使うのが、69・2%。「ご苦労さま」は15・1%だったという。 一般的に、目上の人に、「ご苦労さま」というのは失礼とされる。そういうマナーは、一応、保たれているようだ。


 社会生活を営むうえで「敬語を使いたい」としたのは、92・5%。ただ、676%の人が、「敬語はむつかしい」と思っている。


 テポドン発射の翌日、米海軍の太平洋艦隊司令官、ゲリー・ラフェッド海軍大将にインタビューした(8月1日発売の『正論』9月号に掲載)。その原稿をまとめているとき、敬語の使い方でなやんだ。


 わたしの、司令官に対する敬語ではない。司令官が、語ったエピソードをどう日本語に訳すかで、なやんだのだ。 司令官は、かつてアナポリス(米海軍兵学校)の校長をつとめていた。そのとき、問題を起こした生徒がいた。教官たちは、この生徒を退学処分にしようとしたが、校長だけは、生徒を許した。


それから、歳月が流れ、校長は司令官となって、空母の甲板で起きた航空機の事故ですばらしい救助活動をおこなった若いパイロットに勲章を授与することになった。そのとき、かれは、「話をしてもいいですか」と、いった。「もちろん、いいですよ」と司令官は答えた。 


「かれは、いいました。『あなたは、わたしのことを覚えていないでしょうが、わたしは、かつてあなたに一度会っています。みんなが、わたしを海軍兵学校から追放しようとしましたが、あなたは、何故か、わたしを助けてくれました。昨日、航空機を救助したとき、あなたに借りを返せたと思いました』と」


 こういう話を、司令官自身が、語ったのである。士官が、司令官のことをいうときも、「you」を使った。司令官のことばとして、この会話をどう日本語に訳したらよいのか。 


実際の会話で、一士官が、上官のなかでも最高ランクに位置する司令官に、衆人環視のおおやけの場で、「あなた」とは、日本の場合、絶対にいわない。結局、このように変えた。  


「かれは、いいました。『提督は、わたしのことを覚えていらっしゃらないでしょうが、わたしは、かつて提督に一度会っています。みんなが、わたしを海軍兵学校から追放しようとしましたが、提督は何故か、わたしを助けてくれました。昨日、航空機を救助したときに、提督に借りを返せたと思いました』と」


あまり、敬語を乱用しては、司令官のことばに反することになる。司令官は、インタビューで一度も、「提督(admiral)」とはいってないのだから、厳密には、誤訳ということになる。まあ、それほど厳格に原語にこだわることもあるまいとは思うけれど、それにしても、敬語はむつかしい。 


<きょう・あす・あさって>


 平成8年(1996年)727 若泉敬、死去。享年66歳。没後10年。

昭和51年(1976年)7月27日 東京地検、田中角栄を逮捕。あれから30年。  


〔フォトタイム〕


 東京都庭園美術館その5  


庭園を散策するだけでも、この美術館にきた甲斐がありますね。戦前、ここに住んでいた宮様は、久邇宮朝彦(ともひこ)親王の第8王子、鳩彦(やすひこ)殿下。妃殿下は、明治天皇の第8皇女、允子(のぶこ)内親王。ご夫妻は、2年ほどパリに滞在したことがありました。建物にも庭園にも、そのときご夫妻が目にしたヨーロッパの様式が反映されています。


   

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