何年か前、台北の松山(しょうざん)空港から金門(きんもん)島へ行く旅客機に乗ったことがある。怖かった。金門は深い霧に包まれていたからだ。金門島はいちばん近いところだと、中国大陸とわずか1200㍍くらいしか離れていない。
 したがってパイロットは着陸に全神経を使う。
滑走路をはずしたら、あっという間に中国へ不法侵入してしまうからだ。
 それが着陸時ではなく、離陸時に事故が発生した。エンジンのトラブルの可能性が強い。まったく災難はいつ起きるかわからない。当たり前のことながら、こんどの金門へむかう台湾機の墜落事故でそんなことを思った。
 おそらく機長の機転であろう、台湾機は住宅地ではなく川に墜落し、大惨事を免れた。松山空港は台北の市街地にあるから、一歩まちがえると多数の市民を巻き込む危険性があった。
 乗客乗員58人のうち現時点で31人の死亡が確認されている。機長も副操縦士も死亡し、まだ12人が行方不明だ。助かった人たちのなかに子どもがいた。奇跡的といってよい。一体、なにが明暗をわけたのだろう。
 座席の位置は前方がいいのか、それとも後方なのか。事故のケースは千差万別。いちいち詮索したところで参考になるものでもない。それでも、やはり気になってしまう。

「殺害」という活字が新聞で多く見かける。見るたびに、背筋がゾッとする。

いつの世でも不条理なことはあったし、殺人も絶えたことはなかった。だから、いまの世のなかがかくべつにおかしなわけではない。

 それはわかっているが、それにしても、と思うのだ。どこか、これまでとはちがうのではないか、と。

 たとえば、「イスラム国」の人質殺害にしても、これまでの類似の事件とはまったく異なるのだ。先例が参考にならないというのは、とても怖い。

 日本の女子学生の殺人事件またしかり。こういう手合いから身を守るのは、じつに難しい。なにしろ、ふだんの加害者はふつうの生活をおくっている、ごくふつうの人間にしか見えないのだから。

そして多発する幼児の誘拐事件。おとなしそうな大人がいきなり豹変し、子どもに襲いかかる。いまも、あちこちで命がもてあそばれている。

  渦中のヨルダン軍パイロット、ムアーズ・カサースベ中尉は、ヨルダンではエリート中のエリートである。テレビで記者会見する父親のサフィさんは部族の有力者だという。ヨルダンの世論が沸騰し、ヨルダン政府は「リシャウィ死刑囚を交換する用意がある」とまで譲歩した。
 それには、カサースベ中尉が生きていることを確認するのが、ヨルダン政府の最低の条件だ。これなくしてリシャウィ死刑囚を刑務所から出すことはありえない。
  しかし、「イスラム国」側は、現時点で、それに応えていない。
 なにか思惑があって、出さないのか。それとも、出そうにも、出せないのか。後者のほうではないかという見方が次第に強まっている。

↑このページのトップヘ